「愛川欽也氏」 昭和精吾


―「朝から妙に蝉がうるさくてね、うだるような暑さだったよ」
これが母の長い8月15日だった。

―猛暑と言うよりは酷暑が続きっぱなしだった今夏だったが、暑さに弱い私にとっては炎暑と言った方が当てはまるような毎日だった。そんな暑さの中、南関東一円は7月18日午後から突然記録的な雷雨に見舞われた。翌朝未だその乾き切っていない靖国通りを仕事場に急ぐ私は運転席にいた。
愛川欽也の声が流れた。
「昭和19年、当時私は巣鴨に住んでおり、ごく普通の家庭でしたが、まだ米もあり時々金平糖も食べました。ところが月日を追って段々と米櫃(こめびつ)の米が少なくなり、最後にはとうとう一粒の米も無くなってしまいました。それよりもっと驚いたことには台所から突然タワシが無くなったんです。あのタワシがですよ。私はタワシの消えた台所を見て、戦争というのは何もかもなくなることなんだなあ、タワシの無い台所を見て戦争の空恐ろしさを10歳の時知ったんです。疎開地では食べられる野山にあるものは何でも食べました。それがいけなかったのか、やがて胃腸を壊し、栄養失調になりかかった時、母が訪ねてきて帰り際、行李の隅っこに誰にも気付かれない様に、そっとお茶の筒を入れて行ったんです。カラカラと音がし、何だろう? 開けてみると手作りの花林糖(かりんとう)が28個入っていました。28個ですよ。その数を今でもはっきりと覚えているんです。それを半分におり倍の56個にして、夜布団の中に潜り込んでは毎晩一つだけなめながら食べました。噛るとカリッと音がして皆に気が付かれるからです。元々私は意地の悪い子というよりは、どちらかと言えば優しい子の方でしたから、皆に分けてあげようかな、いやこれだけは自分一人で食べるんだ、誰にもやらないぞ、絶対一人で食べるんだ。・・・戦争は10歳の子供の心まで荒んだものにしてしまうんですね」

国民学校4年生の時に体験した長野県の、あるお寺での学童疎開の話であった。310万人が亡くなった第二次大戦。その人にとって終戦記念ととるか敗戦記念ととるか、来年50年という一つの節目を前に興味深く聞き入った。

昭和19年と言えば、私は3歳で旧満州国新京にいた。翌年4月白山丸で引き揚げ今度の舞台のテーマでもある今春百年の歴史を閉じた花岡事件で知られる鉱山近くの父の生家で育った。何もない寒村であった。正式には、秋田県北秋田郡下川沿村立花部落塚ノ下となる。物心ついた頃毎日大根やかぼちゃばっかり食べて肌が次第に黄色になっていくのを見ても、それもごく自然の事だと思っていた。人の噛んだガムや舐めた飴玉を平気で上げたり貰ったりしてお互いに口にしても誰も何の抵抗も示さなかった子供時代であった。
初めて長靴を履いたのが小学校1年の冬だった。担任の村尾先生が、村の小学校にたった一足だけ特別に配給された長靴を母に譲ってくれたのだった。それまで冬は藁で作った、この地方で『しべっこ』と呼ばれる藁靴を履いていた。初めて履いた長靴は少し大きかったが、雪解け道には滅法強かった。こんなに軽くて水の入らない履き心地の良い物がこの世にあって良いものか! 一週間ほど履き終わっては必ず枕元に置いて寝た。

この様に本当に物がなかった時代と言われても、自分が回りに気が付いた時、もう全てに物がなかったから何がなくても一向に構わず野山を蹴って遊んでいた。自分に長靴がなかったのも、もしかしたら、いや絶対に戦争の為だったのかもしれないが、そんな事より愛川欽也氏のタワシの消えた驚きとは別に、あのゴムで出来た長靴には素直に驚かされた。

「お父さん、ヒョッコリ帰ってくるかもしれないよ」蚊帳の中で寝つくまでうちわで扇いでくれながら言っていた母の言葉を嘘だとはっきり否定できたのもその頃だったし、村で初めてトタン板で屋根を造った家の人かな?井戸を掘り当てた家の人かな?当時はなに陣であるのか知らなかったが、後にこの村の出身だった小林多喜二という名前だけを耳にしたのもその頃だった。同じ地で地獄を見たのは中国から強制連行されてきた捕虜達だったろう。調べれば調べるほど想像を絶するものがあり、元一軍人の子供だった私が、個人レベルでいくら舞台であがいてみてもどうしようもない事など解っているが、是非見て頂きたい。

右前方に大きな鳥居が見えて来た。そういえば遺族会員だった18年前亡くなったおふくろも毎年あの坂道を登りに8月には必ず秋田から上京してたっけ。愛川欽也氏の放送に早朝の濡れた街並みがより一層霞んで見える。気を付けて運転しなくちゃ。最近はどうも涙腺まで弛んできたようだ。

正午、その時甲子園のマウンドでは注目のサウスポー北陽高・嘉勢が頭を垂れていた。7月19日(火)日記より

8月15日 書  昭和精吾


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