「掲示板への回答(2000/06/11)」 昭和精吾


久しぶりに掲示板をゆっくりと読ましてもらいました。
返事とも回答ともつかぬものを水無月の昼下がり徒然に。


まずは頭からXTRMNTR様へ

何とお読みするのでしょうか?
思わず辞書を引きたくなるような感じですが寺山さんと演劇活動をしていた頃は「路地裏の舞踏楽団」そのものの名称も実体も存じません。
自分が天井桟敷を去ってからは判りませんが、もし差し支えなかったら個人名でも2、3人教えて頂ければ 周りにはそれなりに元天井桟敷のメンバーがおりますのでご希望に添えるかどうかは判りませんが聞いてみる事だけは可能です。


次に、りきゅう様へ

離宮ではなくどう考えても利休でしょうね多分。それともやっぱりりきゅうでしょうか?
篠田正浩監督と寺山さんがが同席していた場所には居た時がありましたが、その時お互いに寺山、篠田と呼び捨てにしておりましたが谷川さんが同席した場所には残念ながら居合わせてたことがありません。果たして谷川さんに面と向かって「谷川君」と寺山さんが呼んだのかはいささか疑問ですがいない時は「谷川」と呼び捨てにしてましたし、3回忌公演の時だったと思いますが、山田太一氏とゲストに来て頂いた時は谷川さんは「寺山」と呼び捨てにしておりました。
そんな事はまあ、いいとしても久しぶりに面白い文に会いました。
いかにも寺山さん的で感謝です。お礼に一度だけ舞台上から喋った事がありますが返事代りに。
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ある舞台で野菜を一杯使った芝居がありました。
長期公演だった為、やがてピーマンや人参もしなび始めじゃが芋からも芽が出始めてきました。無事公演が終わってその野菜を使って大きな鍋に劇団でカレーを作る事になりました。ルーも薄くサラサラで肉等全く入っておりませんでしたが毎日空腹で舞台に立っている我々にとっては誠に有難い大変なご馳走でした。野菜は新鮮な内に果物は少し置くと糖分が増しおいしくなると聞いた事がありましたが全くその定説をくつがえすほどの美味いカレーでした。いかにして他人に食わせずより人一倍食べるか、これが課題となりました。おのずと汚い話しが寺山さんの口からこぼれ始めました。寺山流の発想です。

昭和「寺山さん、俺朝から腹の調子悪くてさっきトイレに行ったら全く今食ってるこれと同じ色のペチャペチャしたのがいっぱい出たんですけど………」
寺山「昭和、俺が糞を食っている時にカレーの話しをしないでくれ」
昭和「ハア、寺山さんでもこの糞本当にうまいっすよね」
寺山「俺が朝出した1本出の、まだ湯気のふかふか上がっているこってりした濃い糞を今度一緒に食いに連れて行ってやるからな」

劇団員も研究生も皆隣りのスタッフ・ルームで食べている様でしたが、この話しはついに実現しないまま寺山さんは逝ってしました。
たまに食卓にカレーがのぼりスプーン一杯に盛った糞をほおばった時、今でもあの時の光景を思い出しニヤニヤする私です。
「あんた、とうとうきたんじゃないの」。女房にはこの話しはしておりません。
私も寺山さんも白のランニング姿で二人とも体が溶けはじめようとしていた頃でしたから季節がもうすこし上だったような時の話しです。
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物書きをしている母親とありましたが、「居候としての寺山体験」という話題の本を出版された先輩の前田律子さんの息子さんでしょうか?
東由多加氏も亡くなられ残念ですが彼の分まで何時までも元気でお過ごし下さいとお伝え下さい。
実は昨年11月の末日にCS放送でしたが「明日のジョー」特別番組で、撮影日は違っておりましたが自分は「力石徹への弔辞」を読み、彼は力石へのコメントを出し、番組が一緒で画面から見る限り元気な様子でしたから驚かされました。これが東由多加氏の最後の仕事ではなかったかと思われます。制作会社から送られてきたテープを持っておりますので必要であればダビングしてお送りしましょうか?
もし間違いの方であればごめんなさい、と深くお詫び申し上げます。
      

そして、横田創へ

まずは第四十三回「群像」新人文学賞受賞おめでとうございます。
(作品は現在発売中の「群像」六月号で発表されている)
タイトルが「(世界記録)」、まだ読んでいないが人間機関車ことザトペックの話かな?、それともフジヤマのトビウオ古橋広之進の話かな?、「北極犬橇」と1979年にサインしてくれた植村直己氏の話かな?、自身の世界記録の話しかな?
感想は読み終わってから連絡しますからまた季節はずれの秋田名物きりたんぽ鍋でも我家で囲んだ時にしよう。
相変わらず冴えたコメント有難うございます。また、宜しくとお願いしておきます。


さて、最後は苦言のようなものの傷さんへ

「きず」とお読みするのでしょうか?それとも「しょう」とお読みするのでしょうか?、
あなた様の「傷」という字を見ていると、出刃包丁で切った傷は薬をつければその内なおるし心の傷なんてかくれんぼでもして遊んでいりゃどっかへ行っちゃうんだよね、と話していた事を思い出します。
こと芝居の台本に限って言えば寺山さんはあまり傷という字は使わなかったように思います。
台本が手渡されました。「殺」「喝」「慄」「情」「脱」全く意味が判りません。

昭和「これなんですか?」
寺山「昭和、俺の好きな字を順番に並べて見ただけだ」

これが『邪宗門』という芝居でした。繰り返し繰り返し舞台上から叫び続けさせられた一場面がありました。
別に貴方様のハンドルネームにクレームを付けている訳ではありませんが「傷」と言う字を見てふと思い出した事を最初に記しました。
自分も万有引力のシーザーも蘭妖子も九條さんも寺山修司ではありません。
貴方から見れば我々寺山さんに関わってきた者全て無用の長物として見えるかも知れませんが貴方が求めている『「寺山修司」なのだ』の、なのだの方はすでにこの世に存在しません。存在しないと言う事はもはやコメントが聞けないと言う事です。問題となっている小渕と青木の会話の信ぴょう性もそこにあるのです。医師団は医学的な見地からしてとても長い会話は無理だったように思われますと発表。青木は確かに小渕が言ったと、その言った人は帰らぬ人となってコメント出来ない。ゆえに寺山さんの事に限って言わせて貰えば同様にもはやコメントを貰う事が出来ない、ならば直接あるいは間接的に言われた寺山さんの演劇理念や精神を継承しながら続けて来たわけです。その結果、貴方の言われる無用の長物の誕生となってしまったのです。
「あなたにとって寺山修司とは?」答えはいとも簡単「兄貴みたいな人でした」。
しかし、「もし、今生きていたとしたらどのような演劇方向に向かわれたと思いますか?」
この質問には寺山さんじゃありませんから答えようがありません。推察や憶測で語れませんが
「天皇陛下殿には絶対になれないが物書きをやめて大臣位にはなってたんじゃないですか」そう言うようにしております。なぜなら十七年前に寺山修司という人はこの世から去り「もし…。」と言う事があり得ませんからどのような回答でも成り立つからです。
最後のコメントが貴方もがご存知のように「墓はたててほしくない」でした。しかし、高尾霊園には立派な墓が立ち、永六輔氏の言葉を借りれば「葬式は死者のためにあらず生きてる者のためにある」
ならば、天井桟敷では一番出来が悪く稽古中のダメ出しの時も誰よりも多く怒られたこの私ですが、生きてる限り寺山さんのその死に対して最大限報いて上げるのが人の常かと思います。
自分より遙かに優秀な寺山さんと関わってきた人々が数多く去って行くのを目の当たりにした時、持続はそれなりの力かな?とも多少は自負していた面もありましたが、無用の長物ですいませんでした。
最後に、どうあがいて見ても現時点で存在する出版された寺山さんの各方面にわたる資料等からしか我々は寺山修司を知る事が出来ない事をお伝えしておきます。貴方の言われます『「寺山修司」なのだという事です。』はどういう意味なのでしょうか?理解に苦しんでおりますのでお聞かせ願えれば幸いです。
当方、只今夏眠中ですが秋口からぼちぼち起き出しますので無用の長物の舞台を是非一度見にいらして下さい。質問コーナーも設けますので何なりと。


そして、再び最後に
まだ返事及び回答が必要な方は掲示板の中におられるのでしょうか?
お知らせ下さい。
今日はここまでです。


2000年6月11日 書  昭和精吾


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