先日の掲示板でのご質問について昭和が森崎偏陸さんに問い合わせたところ、
以下のような詳しいファクスが届きましたので、転載します。


●1982年(昭和57年)9月1日、朝日新聞夕刊に寺山修司(当時46歳)の詩が掲載された・・・。
 
 
 
 
「懐かしのわが家」

昭和十年十二月十日に
僕は不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
(後略)


 

この詩を書いて8ヶ月後、1983年(昭和58年)5月4日。
その<僕>寺山修司は、”完全な死体”となって・・・逝った!
昭和十年十二月十日から、47年と144日後・・・。

奇しくも青山斎場での葬儀(告別式)の日、5月9日。
週間読売に、絶筆となったエッセイが載った。
タイトルは・・・『墓場まで何マイル?』
 
 
(前文・略)

寿司屋の松さんは交通事故で死んだ。
ホステスの万里さんは自殺で、父の八郎は戦病死だった。
 従弟の辰夫は刺されて死に、同人誌仲間の中畑さんは、無名のまま、癌で死んだ。
同級生のカメラマン沢田はヴェトナム戦争で流れ弾にあたって死に、
アパートの隣人の芳江さんは溺死した。
 私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきししている。
だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。
私の墓は、私のことばであれば、充分。
 

「あらゆる男は、命をもらった死である。
 もらった命に名誉を与えること。それだけが、男にとって宿命と名づけられる。」
     ウィリアム・サローヤン(詩人)

−絶筆−

葬儀委員長も務め、20代から交際のある詩人:谷川俊太郎は言う。

−寺山は、繰り返し「死ぬのはいつも他人ばかり」と言い方を固執した、
自分の中に死を取り込むことを拒絶していた−





昭和からこの件に関して後日こんなコメントが届きました。

なな様

仕事の関係で毎日覗くわけには参りませんが,詳しい内容はヘンリックのコメ ントでお分かりになったかと思います。全て命あるものは不完全な形で生まれそして 成熟から爛熟の道をたどり最後は朽ち果てる。
寺山さんの我々に対するメッセージかとも思われます。寺山さんが亡くなって9年 目の年だったと思いますが、NHK青森放送局が制作しました「五月の伝言」という 番組がNHK「現代ジャーナル」で放映された事がありました。自分も少しだけ携 わっておりますが、冒頭にこの文が朗読されます。番組のルポライターは後に芥川賞 を受賞した柳美里さんが務め、寺山さんの恩師だった中野トク子先生、同じ青森高校の 文芸部だった京武久美氏、現寺山記念館館長の寺山孝四郎氏、そして友人の佐々木英 明、年代が離れて筋肉少女帯の大槻ケンヂ氏等がコメントし70年代の天井桟敷の様子 や幼少年期の寺山さんの世界を少しは垣間見る事が出来ます。ダビングしてプレゼン トしますので、こもだの方に住所、お名前、電話番号など教えてやって下さい。
肩の力を抜いてゆっくりと寺山さんの世界に入られるのが最良かと思います。なぜか「赤 ん坊がオギャーと泣いて世に出てくるのは、この世の・・・・・・・うんぬん」有名 なシェイクスピアの台詞を思い浮かべながら打っております。また、何か聞きたい事 がありましたら何時でもどうぞ!知ってる事は答えられますが知らない事はつまり 知らない事でお答え出来ません。なるべくこまめに掲示板を覗くよう努力します。遅 くなりました。

昭和精吾