寺山修司の世界『われに五月を』in 大阪からの手紙/こもだまり「李庚順」ラスト


日時 =2001/02/25 PM2:00・7:00開演
会場=弁天町・石炭倉庫

第一部 「叫ぶ種子あり」(作・寺山修司)
『短歌零年』(*作・横田創)出演=八尾建樹 こもだまり
『永山則夫への70行』出演=イッキ
『飛びたいひとには飛びかた教えます』出演=河村侑紀
『母捨記』出演=中西隆雄

第二部 「われに五月を」(作・寺山修司)
出演=昭和精吾


2001年2月25日(日)【当日】

朝7時、携帯電話の目覚ましでバシッとおきる。カーテンもタオルも帽子もすっかり乾いていた。ホテル恐るべし。身体全体が乾燥してる気がするのでシャワー。出てきた時にモーニングコールが入った。7時半、荷物をまとめて朝食会場へいくと、一番乗り。うれしいバイキングだった。普段朝ごはんを食べないくせに旅行だとたくさん入るもので、ソーセージ、ベーコン。スクランブルエッグ、コーン、味噌汁、カボチャの煮物、ごはん、ヨーグルト、ミルクと満喫。じきイッキさんとゆきちゃんが来て、偏陸さんが来て、昭和さんが来た。食後に煙草を吸う人は喫煙テーブルに移動し、私とゆきちゃんは食後のコーヒー。余裕の朝食。八尾さんが心配してるかと「皆無事に朝食してます」とメール入れる。
9時弁天町着、徒歩で会場入り。仕込み、ゆきちゃんは楽屋で衣装のアイロンかけ、八尾・イッキは中西組と舞台の仕込み。私は音響チームで、偏陸さんにつく。まず残っているMDの編集を始める。その間にスライドの準備をしよう。操作方法を伝えて、あとは任せてスライドへ。30分以上経過してテープまで全部MDに落としたよ、と声がかかったので、スライドを中断して聞いてみたら機械の相性が悪かったのか、ピーーーー!しか言わない。・・・やり直すしかない。また同じだけの時間(ダビングだから)丸々かかる、ピンチ、冷や汗、しかし!偏陸さんはこの状況でもいつもと変わらぬ顔つきで、ふつうーーにもう一度ダビングを始めた。全くプレッシャーなど感じていない様子。やり直しだからってふててもない。昨日東京駅で隙間の時間に立ったまま雑誌を開いた姿が浮かぶ。あれはせっかちなのではなかった。今ものんびりしてるのでもない。これは意志だ。昭和さんが信頼するのがよくわかった。

こもだ八尾ダビングしなおしの間にスライド並べ替えを終わらせ、デジカメを設置したら、今度こそ正常にダビングが終わった。MDの前に戻り、曲名を入れたり、曲間をつないだり(Analog録音なので曲内の無音で次の曲としてカウントしてしまい、3曲で27番まで行っていた)。ダビングの音がしなくなったのを聞きつけた昭和さんが早速「じゃあきっかけ稽古しようよ。音響さん照明さんいける?」私「まだ少しかかりますが」昭和「いいーよいいよ、こもだはそれ続けてて。急ぐんだろ?じゃあ音響は出ないから照明さんだけお願いします、まず頭から、最初どうだっけ?中西と」と、客入れからきっかけに絡む私を放ってきっかけ確認が始まる。
八尾「こもだがこっち、私がこっちでマイクで客入れします。」
昭和「はいそれから?」
八尾「曲が入ったらこもだが台詞に入ります」
昭和「立ち位置はそこ?」
八尾「いや、こう、私とこもだが並ぶ感じで」
昭和「ちょっとこもだ!・・はまだか、八尾立って。こもだがどっち?」
八尾「こっちですね」
昭和「待てよ、こもだが脚立に腰掛けるので絵にしよう、照明さん、こうやって二人が並んでるんで、ぼやーっとあててくれればいいです、奥にふたり座ってますけどあれはオブジェなんで、暗く。・・・はいそんな感じで。で、次は?」

結局自分の出番がほぼ終わったところからきっかけに参加して、ハケなど確認してきっかけ終了。通ししたかったけどそれはもう無理な時間客入れに出てる4人は着替えもメイクもある。それぞれウォーミングアップして発声して、楽屋へ走った。

イッキ中西客入れは八尾さんと私。二人でマイクを持って「どちらからいらしたんですか?」とかインタビューしている予定。八尾さんは衣装に色つきメガネを付けて、私は仕上げの一品=AKAKOの特製マフラーを除いたすべての衣装をつけた格好。開演のキュー(合図)があったら私がマフラーをつけて戻ってきて、八尾さんもその間にメガネを外す、そのあと私が最後に「寺山さんの短歌を何かご存知ですか?」とお客さんに聞き、『短歌零年』に入る段取りだ。 迷って電話があった予約の方も着いたとかで、ついにキュー。さあ楽屋へ行こうとした途端、曲が始まってしまった!このままやるか?と一瞬迷いが浮かんだが、わざわざコーディネイトしてくれたAKAKOさんに会わす顔が!・・・というより自分が、つけるって決めてたからなしじゃすっきりできない!という葛藤を顔には出さず、当然の如く楽屋に入っていき、鏡前でマフラーを付けて、さくっと出てい・・こうとしたらやはり焦っていたのか、楽屋の鞄に躓いたりして、楽屋でスタンバってるイッキさんに「大丈夫か?」と笑われながらもうなずいて出ていく。

ファーストシーン『短歌零年』が終わって暗転したらなんと拍手が。予想だにしてなかったこと。暗転中に私はスタンドにマイクを、八尾さんはイッキさんにマイクを渡し、楽屋へはける。暗転中のではけの確認をじっくりしなかったので、人やら脚立やらにあたりながら慌ててはける。楽屋のドアを閉めたところでイッキさんの>『永山則夫への70行』、続いて中西くんの『母捨記』、ゆきちゃんの『飛びたいひとには飛び方おしえます』、八尾さんの『スーパーマンの詩』。 それぞれ終わって暗転ごとに拍手をもらう。初めての経験だ。



李庚順アメリカよそのまま昭和さんの第二部が始まる。若手組は一応無事に出番が終わってあとは昭和さんの場面の効果係(スモークとか鈴とか)、それはもう手慣れたものなのでとりあえず一安心。いつも通り、昭和さんのつまびくギターに『短歌十首』を読む声が聞こえはじめる筈、が、なんだかよく聞こえない。まさか、マイクトラブル?しばらくしても一向にマイクに声が拾われていない。楽屋は舞台の裏にあるので不用意に舞台をのぞき見ることもできない。マイクが違う方向向いているとか?だったらギターを弾いている昭和さんは両手がふさがっているから直すことができない。いっそ段取りの振りしてどっかで出ていくか?などと考えていると、『恐山和讃』に入る前、大胆にもマイクのスイッチを入れる「ガコッ」という音が響いた。
暗転をはさんでつつがなく『李庚順』へ。昭和さんがアロハシャツに着替えて、セニョールブルースになって、そのまま母殺しまでいって、また着替えで『おさらばの辺境』だ。
着替えて?私は昭和さんが『おさらば』に着替える時楽屋にいたことがない。おかしい。「私こっちはけちゃいけなかったんだ!」と小声で叫ぶ。仮面劇・犬神やっぱりゲネ(リハーサル)をしてないとこういう事が起こるのだ。暗転で出ていけばいいのだけど、下手は脚立とか段差で歩くのがちょっと恐い。昭和さんがはけてくる上手を、昭和さんに当たらないように行くしかない。昭和さんは暗転にえらく強いので普段ならフォローすらしてくれるだろうけど、私が通ることを知らないのでぶつかる可能性は大だ。力石徹よとりあえず私がすすっといければ当たることもないはず、という緊張の暗転だったことをまわりのみなさんもお客さんもたぶん知らないだろう。
無事に客席真ん中の通路を通ってスライドの横へたどり着いて、『おさらば』のスライドも無事完了、『アメリカよ』
トークタイムへ。『力石徹よ(弔辞)』朗読や、大阪へ持ってくる予定の『仮面劇・犬神』のワンシーンをはさみつつ、ラストへ向けての決め台詞。
「では雪でも降らせましょうか?」

『雪か?』『国家論』で公演は二時間半で終わった。



ソワレは、帰りの電車に間に合わなかったらコトなので、昭和さんは「トークを短くするから」といいつつもやはり二時間半の舞台、片付けをもう一泊する八尾さん・イッキさん・偏陸さん、大阪組の中西くんたちに任せて、昭和さんとゆきちゃんと私は慌てて大阪駅へ向かった。
本当にギリギリ間に合って最終の新幹線に乗り込めた。昭和さんがビールを3本買ってくれて、3人で乾杯した。
程なくアナウンスが流れた。「本日は新幹線をご利用頂きまして・・」というやつだ。聞くともなく聞いていた。
「・・東京には23:15に到着します。車掌は○○、運転手は寺山です」。
三人、一瞬息を呑んで、「おーーー」と言った。昭和さんはうつむいたまま子供みたいににっこりして「すごいね」と言った。「こもだ、これ、帰ったらすぐホームページに書いといて。『ギリギリの所を、寺山さんが無事に連れて帰ってくれました』で締めるんだよ」。

・・・というわけで、ギリギリの所を、寺山さんが無事に連れて帰ってくれました。


(文中の公演写真は、前夜祭でもお世話下さった樋口ヒロユキさん提供です。ありがとうございました。)



2/24前日篇レポート
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