寺山修司の世界『われに五月を』in 大阪からの手紙・前日篇/こもだまり



昭和精吾 日時 =2001/02/25 PM2:00・7:00開演
会場=弁天町・石炭倉庫

第一部 「叫ぶ種子あり」(作・寺山修司)
『短歌零年』(*作・横田創)出演=八尾建樹 こもだまり
『永山則夫への70行』出演=イッキ
『飛びたいひとには飛びかた教えます』出演=河村侑紀
『母捨記』出演=中西隆雄

第二部 「われに五月を」(作・寺山修司)
出演=昭和精吾


2001年2月24日(土)【マエノリ】

出発の朝。
待ち合わせは11時40分東京駅八重洲口。昭和さんとイッキさんとゆきちゃんは昭和さん宅から一緒に来るという。皆の新幹線の切符も、ホテルの宿泊券も私が持っているので責任重大だ、と思うと昨日はあまり眠れなかった。予定より早起きして、「衣装とかは八尾のところに送っちゃったけど、壊れるの恐いから犬っころとギターは持っていくから。手に荷物持てるように、自分の荷物はまとめてきてね」という昭和さんのリクエストに応えて、衣装からビデオカメラから何から全部積めこんでかなり重い登山用リュックを背負って、池袋から丸の内線で東京駅に向かう。早く着いて朝食がてらコーヒーを飲むつもりだったけど、丸の内線の改札を出て待ち合わせ場所を見つけたらもう20分くらいで、まだ誰もついていなかったから近くのお店に入ってもよかったけど、誰か着いた時に私がいないと絶対、寝坊したかとひやっとさせるだろうから諦めて、新幹線の中でごはんを食べることにする。念の為ゆきちゃんに「改札にいます、わからなければ電話下さい」とメールを入れ、一昨日から読んでいる(おかげで寝不足になっている)「新しい人よ眼ざめよ」(大江健三郎/講談社文庫)を読みながら待っていると「みんなまだ?」と偏陸さん到着。その時で10分前くらい。偏陸さんはすかさず雑誌を読み始めた。5分ほどして予告通り大きな肩掛かばんとギターと犬っころ=仮面劇「犬神」のシロとを抱えたイッキさん、旗を抱えたゆきちゃんが昭和さんを挟んで現れる。昭和さんはサングラスにトレンチコート、ギターを出したらそのまま舞台に上がれそう。新幹線乗り場は目の前だ。改札手前で切符を配布。特急券と座席券を二枚同時に入れる方式なのだけど、イッキさんは「ここに入れるの?2枚入れるの?一緒に入れていいの?」と早くもパニックだった。階段を上がって11番ホームへ。ホームへ着くやいなや、偏陸さんはまたすかさず雑誌を読みはじめる。ちょっとの時間もぼーっとはしない人みたいだ。「俺はチャーハン食べてきた」と昭和さん。迎えに来るイッキさん・ゆきちゃんの分も用意してたらしいけど、時間がなくて彼らは食べられなかったそうで、3人はお弁当を買う。まだ12時になりたてで、たっぷり眠ってはいないので食欲はいまいち。一番珍しそうな、かにがたくさん乗っているお弁当を買う。買ってから、いくらとしゃけのお弁当を見つけて、ちょっと後悔。ふたりのは植物で織った籠のお弁当箱だった。

新幹線に乗りこむ。
本当は7のABCと通路を挟んでD、8のAという5席だけど、「すいている間はいいよ」と昭和さんと偏陸さんが7のABCをふたりで占拠して、音響の打ち合わせに入った。私が8のA。ゆきちゃんが8のB、イッキさんがC。自分の座っている席はチケットと違う席なので、東京駅を出てしまうまで落ち着かないと言って、イッキさんはお弁当箱のふたを開けたり閉じたり逡巡して、通路を人が通るたびに「そこ私の席なんですけど」と言われるのを恐れて緊張のしていた。ゆきちゃんと私は既に食べはじめていた。ゆきちゃんの席を買ってた女の人は見るなり快く席を替わってくれたので、もう安心なのだ。動き出すとイッキさんもようやく食べ始めた。大阪で待つ八尾さんに「皆無事に乗りました」とメール。
急遽音響を頼んだ偏陸さんは、MDを使った事がないのだそうで、とてもドキドキ。一度も一緒に稽古してないし、初めての場所で初めてのMD操作だしと心配な状況ではあるが、偏陸さんは昭和さんの朗読は何度となく聞いているし、天井桟敷で音響もやっていたからと彼に昭和さんは絶大の信頼を置いていて「偏陸は大丈夫だよ」と言いきっているので、大丈夫なのだ。たぶん。
イッキさんはお弁当を食べ終わると「永山則夫への70行」という詩を読むからか、永山則夫の小説を図書館で借りてきて読んでいた。私は新幹線では手紙を書くか本を読むかだけど、今日はそういう感じでもなくて、ゆきちゃんとずっと話をしていた。ケンカの話になるとゆきちゃんが「私の家は父親も私も怒ると物投げるんですよ」と告白したのがおかしかった。父親とケンカすると二人で物を投げ合うのだそうだ。私はお礼に、ふすまをグーで殴って破いた話をした。そのあと、1週間前に見たゆきちゃんの舞台、オフィス・サエの「まばたきの天使」の話をした。今まで見たオフィス・サエ企画の中で一番よかったので、是非出演者の話も聞きたかったのだ。大阪で私が八尾さんとやる「短歌零年」の演技の方法と同じ思想を感じた。八尾さんが見なかったのはとても惜しい。キーワードは棒読み。そして棒読みの方法はブレスにあり。そこを伝え切れなかったのだけが心残り。ある意味リハ勝負だ。名古屋につくとゆきちゃんがしきりに窓の外を見る。「名古屋では一般の家にもしゃちほこがあるところがあるらしいんですよ。しゃちほこ見たら幸せになれるんですよ」と断言するのでふたりでしゃちほこを探したり、「しゃちほこってどう書くのかなあ」(携帯メールで調べたら「鯱」だった)とかそんなことをしつつ大阪に近づいていった。「新幹線っていいですねぇ。ぼやーとしてても大阪に行けるんですねぇ」とゆきちゃんは変なことに感心していた。イッキさんは打ち合わせを終えた昭和さんに「この弁当箱、芝居の小道具にどうですか?」とお伺いをたてたが「いらないよ」と一蹴された。せっかく2個買ったのに。

名古屋を出る時に新着メールのお知らせが入る。が、間一髪新幹線が出てしまったので、なかなかメールを読みこむことができない。3度目にやっとゲットできて見たら「そろそろ名古屋に着く頃だと思います。何号車にお乗りですか?(八尾)」。いやいや、もう出ましたよ。

大阪到着。
ホームで八尾さんが「お疲れさまです。こちらです」と笑顔で迎えてくれた。「ツアコンみたいだね」「三角の旗持っててほしかったよね」といっていると偏陸さんが「昭和ご一行様って?」と絡んでくれてちょっと嬉しい。八尾さんと私はもう10年来の知り合いだけど、大阪で会うのも、出迎えられるのも初めてだからか、私も4人も八尾さんさえもなんだかなんだかちょっとくすぐったいような特別な感じで、それこそ「しゃちほこばって」ニコニコしながらしゃきしゃき歩いた。なかでも偏陸さんはせっかちなのか、とても先を行っていて、荷物の重い我々は置いていかれがちだった。そのまま会場を見に行く。八尾さんがみんなの分のプリぺイトカード「スルッとKANSAI」(東京でいうパスネット)を用意してくれていて、いちいち切符を買わずに済み、気分がいい。やるなあ、と思った途端「自分の分買うの忘れたわ」といってカードを買い足しに行き、皆に遅れる八尾さんだった。かっこいいんだか悪いんだか。
大阪ぽいものにも出会えた。改札入ると口をあけて二本足で立っている巨大なカエルのオブジェ。読み終わった雑誌をいれるポストらしい。でもなぜカエル?リサイクル、みたいなニュアンスなのか? 乗換で歩いていると、噂の大阪限定「チカン アカン」ポスターも見れて満足。新幹線で「そう言えば大阪のエスカレーターは東京と逆で、昇る人が左なんですよー」「それは役立ちそうな情報だね」とゆきちゃんと話していたけれど、ここまでは空いていて、端による必要もなく、確かめられなかったのが残念。乗換も八尾さんが下見してくれていたのでスムーズだった。「もし前のほうに乗ってしもても、こっち側の水族館側に降りるんやと憶えといてください」などと明日のことまで気を配る、完璧なまでのエスコートぶりを見せた。

石炭倉庫まで、駅を降りてから10分と聞いていたけど、景色が殺風景で、夕方で曇天なこともあり、すごく遠くまで歩いた気がした。皆荷物は重いし、思っていたより寒いしでどんよりした空気が流れ出した頃、畳屋さん(畳を作っている)の工場を見てちょっと元気を取り戻した。と、次の角が石炭倉庫だった。会場は2階で、想像していたのよりずっとこぎれいで、しっかりした建物だった。ロビーも広く、ギャラリーっぽい感じ。中西くんと照明さんが中で待っていた。天井は低いけど印象はいい。気を良くして衣装を楽屋につるす。私は音響係り、というか八尾さんから偏陸さん係りを命じられていたので、偏陸さんと一緒にオペ室へ行く。劇場の方に説明を受けて、つないで音を出してみる。偏陸さんは「俺の使ってもいいかなあ」と言って、一昨日これの為に買ったという(!)MD再録ウォークマンを取り出し、接続する。
「これの為に買ったんですか?」
「そうだよー、昨日説明書見て憶えたよー」
物腰やわらかなせいか、大丈夫だな、という気がする。そういう気にさせてしまう人らしい。

ホテルへ向かう。サンルート梅田。最寄駅を出たところでおばさまに道を聞かれる。こっちも迷っているのだ。通りすがりのおじさまに「すみません、ホテルサンルート梅田ってどっちですか?」と聞くと「いやあ私もそこへ向かってるのですが、探してるんですよ」。皆でぞろぞろ地図をみながらホテルへ向かった。着くと受付が大混雑。八尾さんに宿泊券を渡したらキーをもらってきてくれた。私には1209。私の誕生日の数字だった。八尾さんの粋な計らいなのかどうかは確かめなかったので定かではないが、まんまとちょっといい気分になる。部屋に荷物を置いて10分後に集合、と言って部屋へ。ホテルにひとりで泊まるのは2度目で(初めては青森公演の時)、慣れてないのでかなりドキドキ。このあと出かけるので荷物を最小限にまとめて降りる。ウェルカムドリンクがついているのだそうで、皆で食堂でお茶する。
偏陸さんと昭和さんが過去の大阪公演の話するのを聞いていたらやっと、大阪に「公演しに来た」んだなあという気がしてくる。


それから電車でテラヤマ・ワールドへ。
会場は広いのでそれぞれバラバラに見て回ることにする。私は東京でもひとりでゆっくり見たのだけれど、あらたな発見もあった。テラヤマ・ワールドはいくつかの小部屋に別れていて、初期短歌の小部屋?と私が思っている部屋の壁に「ほどかれて老女の髪に結ばれし葬儀の花の花言葉かな」と書かれた色紙を見る。私が知っているのは昭和さんの公演のラストにかかる、寺山さんの朗読による「少女の髪に結ばれし」バージョンだ。東京で見たときに、ほんの1文字でこんなに違うものかと驚かされたのを思いだした。展示されてる短歌に、好きなやつをみつけた。

桃の木は桃の言葉で羨むやわれら母子の声の休暇を

なんとなく、時間の流れが変で、でもsweetで好き。この部屋にも寺山さんが「アメリカよ」や短歌を朗読しているテープが流れている。聞いていると昭和さんが入ってきて「このテープは初めて聞くぞ。なんだこれは」といいながらスピーカーから流れる寺山さんの声に合わせて短歌を詠んでいた。まわりのお客さんは昭和さんとは知らないだろうから、展示会でいきなり短歌をそらんじるおじさんを「何者だ?マニアか?」とでも思っていたことだろう。なんだかとても贅沢な空間。
外の壁に、『短歌零年』の台詞に出てくる胸いたきまでという文字を見つけて、胸がしめつけられる。まさに「胸いたきまで」という感じ。いい台詞だなあと改めて味った。寺山さんと会ったことないのに彼の言語を知っていて、そらんじているという実感が沸いたのか?急に緊張してきて、ヒトゴトでないような気がしてしまった。私でさえこんな気分になるのに、実際に寺山さんと一緒にいた昭和さんや偏陸さんは、この展示の中でどんなことを考えるのだろう。

3階にあがると、高尾の寺山さんのお墓の写真があった。ちょうど昭和さんと八尾さんが昇ってきたので、八尾さんに「行ったことありましたっけ?」と聞くと「ないんや」と答える。「この写真、なんか細く見えるな」と昭和さんが会話に加わる。私は3年程前に一度、夜中にお参りしたことがあり、その時誰にも内緒で『短歌零年』の戯曲(上演前)を置いて来たことを思いだす。すっかり忘れていたが、本番前に思い出せてよかった。気合いを入れ直す。

販売コーナーで「邪宗門」の戯曲を見ていたら昭和さんの写真が載っていた。当たり前なんだけれど、おお!と思う。私の知っている昭和さんは今の昭和さんだから、若いころの昭和さんは知らない人なのだ、でも同じ昭和精吾なのだ。その後も出口付近で流れている「書を捨てよ町へ出よう」のラスト近く、天井桟敷のメンバーの顔が次々フラッシュされる場面で、昭和さんや偏陸さんや、萩原さんを発見して、おお!と思う。

会場内でみかけた偏陸さんは、ショーケースに寄りかかり、懐かしい人の手紙を読むような、優しい表情で寺山さんの文字を眺めていた。ナツカシイ顔。「ニューシネマパラダイス」のラストを思い出した。今はもうない、でも過去には確実に存在していたものを見る、見かた。
私から見ると、展示の全てが過去であって、私が共有した時間はない、知ったときにはもう死んでいたから。私にとっては寺山さんは文字だった。それ以外の関わり方を発見したのは「徹子の部屋」を見たとき。会ってもないのによく知ってる人のようで、でも動くのを見るのは初めてで。だから嬉しくてドキドキして見てたんだけど、この人はもう生きてない、もう会うことはできないんだと気付いたら涙が溢れた。何だろう。生まれた時には死んでいたお父さんの映ってるビデオを見たらこんな感じかな?

昭和さんに会場の感想を聞くと「よくできてると思うよ」と言う。
「いや、寺山さんを実際に知っている昭和さんから見ると、この展示ってどういう風に感じるのかと思ったんです」
「ああ・・・俺からすれば生原稿なんかおもしろくもないわけ。腐るほど持ってるからさあ(というか展示用にここに貸してあるくらいなのだ)・・。だからむしろ、寺山さんの小さい頃の新聞とかさ、そういうのが面白いかな。さ、そろそろ行くぞ。みんな呼んできて」
といわれ皆を探しに順路で最後の部屋「天井桟敷の部屋」に戻る。その出口付近に貼ってある言語を見て、あっと思って読み返して、何度も何度も読み返した。

「劇場があって劇が演じられるのではない。劇が演じられると劇場になるのだ!」



1階で八尾さんのお父さんに会う。衣装などを八尾さんの実家に送らせてもらってあるので、それを運んできてくれたようだ。
キリンプラザの横の橋で、3団体くらいが「寺山修司追悼記念」という札を出してパフォーマンスらしきものをしていた。「国語」というタイトルを抱えて、わっかを持った男女三人が屈伸しながら詩を朗読しているようだった。その横ではパフォーマンスの後なのか顔を白塗りした人がお客さんらしき人と話をしていた。昭和さんは「すごいねえ。でもどこが寺山さんと関係あるのかな?」と笑う。昭和さんは若い人がどういう形であれ、こうやって寺山さんに興味をもって活動してくれることは嬉しいようで、よく暖かい発言をする。

そのままビデオ上映会会場へ向かい、メールや電話ではたくさん話したけど顔を見るのは初めての樋口ヒロユキさんに会う。
樋口さんが会場に来ていた他のメンバーを紹介してくれた。オレペコ企画の岸田コーイチさん(=フォーク・アングラを中心にすさまじい数のブッキングをしてるフリーのブッキングマネージャーさんだそうだ)、扇町ミュージアムスクエアの山納さん、大阪芸大の学生の女の子2人。
99年の青森での公演(三沢公会堂と寺山修司記念館の2日分)を見る。会場はカウンター10席だけのちいさなカフェバー。昭和さんはあまりの密接さで照れ臭いのか「やめませんか?」と冗談まじりに言う。考えてみればお客さんも、本人前に見るのは変な気分だったかもしれない。偏陸さんが一番リラックスしていて、時々感想やら質問やらしゃべってくれて場を和ませていた。
11時まで飲んで、明日に備えて遠征組はホテルへ。他の皆さんはつわもので、まだ飲んで行ったようだ。みんなあんまり食べなかったので一番の楽しみだった大阪名物お好み焼き屋を探すが、この時間もうどこも空いてなくて近所でラーメンを食べ、駅へ向かう。が、電車も終電で手前の駅までしかなく、暗くなりつつある構内で駅員さんに出口をきいて「この地図もっていっていいから」と大阪弁で言われて(このときにかなり大阪という実感が沸いた)タクシーで帰った。夜中にお腹空きそうだからと3人でホテル隣のローソンに寄ると、昭和さんとばったり会った。「なんだ、まだ帰ってなかったのか」と笑われる。
ホテルへ。
昭和さんの部屋は向かいなので「何かあったら夜中でも連絡して下さい」と念を押して部屋へ。少し飲んでいるからとてもこのまま眠りたい。ぐずぐずしてたらホントに眠ってしまいかねないから、さっさとバスタブにお湯を溜めて入る。中西くんのかぶる用に借りてきた夏帽子をバックから出したらしわがよってしまってたので洗って干す。電話。「部屋がすっごく乾燥してるので喉が心配」というと、バスタブにお湯を張ってドアを開けておく+タオルを濡らして部屋に干す+カーテンを濡らす+濡れタオルを枕元に置けというアドバイス。全て実行する。明日の朝は無駄にする時間が全然ないので早く寝ようと思ってベットで『新しい人よ眼ざめよ』を読んでいたら止まらなくなって目が冴えてしまった。「甘栗むいちゃいました」と部屋にあった緑茶を飲んで、手紙を書いてから眠った。





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