映画『書を捨てよ町へ出よう』の世界からの手紙/こもだまり



2001/05/07

日時 =2001/05/06 PM3:00開演
会場=亀戸 カメリアホール

第一部 映画「書を捨てよ町へ出よう」(脚本・監督=寺山修司1971年度作品)
第二部 詩朗読「修司さんへの手紙」(詩=佐々木英明)朗読=佐々木英明 本堂綾
第三部 長編叙事詩「李庚順」(作・寺山修司)出演=昭和精吾
第四部 映画「書を捨てよ町へ出よう」の寺山修司の世界を語る
出演=萩原朔美 稲葉憲仁 森崎偏陸 佐々木英明 昭和精吾(司会=八尾建樹)




朝8時半起床。英明さんを迎えに羽田空港へ。昭和さんから「とにかく一刻も早く連れてきて」とのお達しで、普段だったら仕込みしてチケットの管理して受付の準備する午前中だけれど、とにかくお迎えに専念しろとのこと。青森の三沢から英明さん、MXテレビの山田さん、大澤さんと3人で同行するという話だ。私の家から羽田空港まで約1時間、乗り過ごして遅れたりしたら責任重大だと思うと緊張してせっかく持ってきた本にも集中できない。有楽町駅乗り換え時に無印のお店を発見。昨日家で出てこなかったペンライト¥800を購入。JRに乗り換えて浜松町、モノレールで羽田空港へ。予定通り、30分以上早く到着。「日本エアシステム到着」の矢印は2階を向いている。1階の薬局でペンライトの電池を買ってエスカレーターを上がる。到着表示板によれば三沢発222便は10:55より少し早く着くとの表示。預かり荷物あり=2・3番出口、なし=1・6番出口。そこまで聞いていないので預かり荷物ありに賭けて2・3番出口で待つ。
10:47、到着アナウンス。どのくらいのタイミングで出てくるのか、初のお迎えなので見当もつかない。そのまま10分経過。心配になり、同行しているMXテレビの山田さんの携帯を呼ぶが留守電「2・3番出口で待っています」といれる。その間にも人は続々出てきて、荷物を受け取っているが英明さんらしき姿はない。切れ目なく流れる「お呼び出し」。ドラマで見た通り、カウンターのお姉さんにお願いすれば呼びだしてくれるはずだ、とそこを離れてカウンターを探すが見つからない。1階に降りて「呼び出しは何処でお願いすれば」と声をかけると「こちらで承ります」とのこと。メモ用紙を出して「お呼びだしの方のお名前は?」・・・何だっけ?2秒フリーズ。エイメイサン・英明さんだ、佐々木英明さんだ、でも、英明さんの名前を空港で大アナウンスしていいものだろうか?とはいえ同行している二人のフルネームは知らない(とその時は思ったけど、今考えれば知っていた)、仕方ない。「ササキエイメイ」「お客様のお名前は?」「コモダマリ」「どちらでお待ちになりますか?」「2・3番出口で」と答えてメモを見ると「コモダマリコ様」になっている、「あ、マリです、マリコではなく」と訂正して「ではお呼びだしします」というお姉さんに「よろしくお願いします」と言ってエスカレーターを駆け上がる。一応通り道の6番出口を見て、2・3番出口へ走る。と、見覚えのある顔があった。「大澤さん!」ご本人の言を借りれば「神出鬼没の大澤さん」とは青森でも大阪でも公演にいく先々でお逢いしているけれど、このときほどに嬉しかったことはない(笑)。大澤さんは「どこにいた?6番?」といつも通りの笑顔でいいながら隣の喫煙所に向かい「英明今荷物でつかまってるからさあ、もう出てくるよ」「そうですか、今、呼びだしお願いしちゃいました」と話しているとじきに白いKAPPAのジャージ上下に身を包み、手には黒い巾着袋(ミッキーマウスのアップリケつき)とスーツを持った英明さんと、機材を両肩に背負った山田さんが現れる。開口一番英明さんは「鉛筆削り用に持ってきたナイフを取り上げられてしまいました。飛行機に刃物は持ち込めないらしいね、返してもらうので時間かかっちゃった」とテープで聞いた寺山さんと同じ青森の響きで言った。よろしくおねがいします、とかお疲れさまです、とか、おひさしぶりですとかが私の頭を巡っているうちに「今日はよろしくお願いします」と先に言われてしまった。
「モノレールでしょ?」と大澤さんがいい、「浜松町からJRで秋葉原、総武線の予定です」と昨日調べた予定を伝え、1階へ降りると、「お客様のお呼び出しを致します。ササキエイメイ様、ササキエイメイ様、ユモダユリ様が・・・」コモダマリというカタカナは読みにくいらしい。「すみません」と謝ると英明さんは照れたように足早に歩いた。
切符売り場でも大澤さんが「亀戸まで買えるよ」と教えてくれ、モノレールに乗る時も「このへんがいいんだよね」、あまり私は役立っていない様子。少しでも役目を果たそうと英明さんに「昭和から一刻も早くおつれするように言われています」と言うと英明さんは「昭和さんは元気?」とにっこりして言う。
「昨日今日は暖かかったですから、いいと思います」
英明「今も朝お風呂に入ってるのかな?前からそうだよね」と懐かしそうな顔をする。
「東京は一昨日まで雨だったんですけど、今日はいい天気でよかったです」英明さんは窓の外を見て大澤さんに
英明「このモノレールって大船、通る?」
大澤「通らないよう、全然関係ないよ」
英明「昔大船にモノレールで、あの、大船に観音様あるよね?」と私に振ってくる。
「あります、大船観音」
英明「あるよね?そこにモノレールで行ったんですよ、一本でつられてるやつで」手帳の路線図を調べると
「あ、あります、湘南モノレール!」
英明「そうでしょう、ほら」と満足げ。
窓の外はかなりの上天気で、見晴らしもよくいい感じ。モノレールにしてよかった。
「映画は何歳の時だったんですか?」「あれ?う~ん、70年くらいでしょ?二十歳くらいかなあ」「英明青森帰ってたんだよね」「そう、寺山さんから呼ばれて。70年に帰ったんだから、71年くらいだな」「私72年生まれなんですよ」「72年?みんな歳とるわけだ」と苦笑。「家ないから桟敷に泊まったり、斎藤さんの家泊まったりして。『泊まれ』って言ってくれるんだけど風呂無いんだよね。格好もあれ普段と一緒で、全然変わらないの」

浜松町到着、乗り換え。八尾さんに「予定通り12時15分までには到着します」とメール。
「東京は久しぶりですか?」
「うん、さっき大澤さんと話してたんだけど、6年ぶりくらいらしい。淡路島の震災の時に偏陸の家に泊まって、偏陸が実家に行ってたから留守番がてら何日かいたよ。それ以来だな」

最後の乗り換え、秋葉原。
「山田さんはお仕事は何時何時ってあるの?」訊く英明さんに「いえ、ほとんど会社に泊まってます、たまに家に帰るくらいで」と答えた山田さん、よく聞くとイントネーションが英明さんに近い。もしかして1日から青森にいたってことはあっちの出身だからなのか?
「ホームページはこもださんが作ってるんでしょ?あれ読んだよ、青森の(99年青森公演)。あなたたちがやった短歌の・・・」
「はい」
「あれ、記念館で聞いたときに『これいいなあ』って思って聞いてたんだけど、読んだらちゃんと『英明さんが構成した』って書いてくれてて、あれえ?僕作ったっけ?って思ったよ(笑)」
大澤「英明も出せばいいじゃないホームページ」
「ほとんど子供に占領されてるよ、インターネットは」
いつか英明さんの詩をネット上で見られる日が来るかも知れない。

12:10亀戸駅到着。
予定通りなので特に連絡をせず、直接会場へ向かう。横断歩道の照り返しが眩しい。
「眩しいですね」と声をかけると、会場入り目前にして気合い充分な表情で「そうですね」と応える英明さんの姿こそ眩しかった。
無事に会場まで案内できて安心したのもつかの間、エレベーターの3階を押しても「その階には止まりません」の非情なアナウンス。MXテレビの山田さんが「じゃあ奥の搬入エレベーターで行きましょう」と案内してくれる。私ひとりでなくて本当によかった。打ち合わせ通り、舞台客席へ案内する、と客席は暗く、昭和さんが舞台で『李庚順』やっていて、(到着時間を知ってる筈なのに)終わる気配がない。客席は暗くて危険なのでそこで座って待ってもらい、八尾さんを探す。「客席にいるんじゃない?」とスタッフが言うので早速ペンライトに電池を入れて客席内を探すが、誰もいない。楽屋に行ってみようかと通路に出た所で電話が入る。
「おはようございますー八尾ですー、どうもどうもお疲れさまです、えー、駅に着かれたという情報が入ったんで駅に迎えに出たんですが、どちらに・・」「いえ、もう会場です、今客席で八尾さんを探してたとこです」「あら!・・・裏の搬入口から入った? MXテレビのカメラが2階のエスカレーター前で、英明さんの会場入りを撮影するためにスタンバってるんや」「今(MXの)山田さんも一緒なんで替わりますか?」
とりあえず3階エスカレーター脇に行くとテラヤマ新聞班の稲葉さんと金子さんが販売カウンターを作っている。会場を把握してない私の代わりに金子さんが気を利かせて英明さんを楽屋に案内してくれた。カウンターで10本もの色ペンを駆使して稲葉さんはお馴染の字でポップを書いている。白黒でテラヤマ新聞とか昔の台本を見ているけど「カラーは新鮮ですね!」と話しかける。「バスツアーも募集するよ!」と稲葉さん。金子さんが「今日は(稲葉さん)短パンじゃないんです」(初対面のバスツアーで稲葉さんは短パンに麦わら帽子にツアコン三角旗を持って新宿の街角に立っていた)「後で切ってきます」短パンは普段にはよく履くのだそうだ。
そのあと2階から上がってくるMXの伊藤さんに対面。「お二階で待ってらしたんですね、すみません裏から入ってしまいました」と言うと「いえ、大丈夫です、昭和さんも裏から入ってしまって、取り直させてもらいましたから、できればあとでもう一度」と笑顔で言う。
2階では「今河村さんがごはん買いに行ってます」とのことで相田さんがひとりで受付業務をしていた。初めてとはいえ、きちんとできている模様。 安心してスライドの準備に戻る。誰がとこにいるやらさっぱりわからないので八尾さんに電話。「場内暗いんで、昭和さんのゲネ終わったら設置ってことでイッキさんにもお願いしてあるんで」「わかりました」。この隙に場内を把握しようとうろうろしていると、舞台上手袖にインカムをつけた影が見える。そっと近寄ると今日は舞監(舞台監督)のイッキさんだ。足元に二人、一人は伊藤ノリくんと呼ばれている舞台の助っ人、もう一人は今日来ると噂されてた石原さんか?と思っていると、おととし『時代はサーカスの象にのって』で共演した田中くんだった。イッキさんはインカムに「はい!」と反応し、「・・また俺じゃないのか。伊藤くん、って呼ばれると俺かと思っちゃうよ。今日は照明さんにも伊藤くんがいて、ノリも伊藤だし、伊藤だらけだよ」

1:00。とてもお腹が空いた。イッキさんは「食べときや」というけど、言われた楽屋には知らない人がいて、お弁当らしきものも見当たらず、断念する。たぶんこのまま食べられないで終わるんだろうなあ。
1:40、スライドの準備。一段高くなる客席の真ん中あたりの真ん中に箱馬を設置し、ガムテ止め。できたての劇場で床もきれいなので劇場の方にイッキさんは気を使うが、係のかたは「すきなとこ置けばいいですよ」となにやら不穏な反応。午前中一悶着あったのか?
偏陸さんが前の客席に座り「俺の頭にかからないようにもう一段あげときなよ!」とアドバイスをくれて、大澤さんも設置を手伝ってフレームを合わせたり、高さを調整したりしてくれる。英明さんからシートにきれいに整理されたスライド36枚を預かる。
「これを最初の曲の、歌の所から写してください。そのあと2秒くらいごとにどんどん写していって、2番終わりにオーオーオーとスキャットになるところで僕が出ますから、そしたらスライドを消して下さい」とのこと。曲は初聴で、どさくさに紛れて2度聴けただけなので、間奏の長さもカウントできないままで少し不安。『花岡物語』や『おさらばの辺境』と違って詩に合わせてスライドを写すのではないから、勝手が違って逆に不安なのだ。でもゲネでは終わり際には合わせられたので大丈夫だろう、と思う。
そのあと後ろの席から見てみると、スクリーンには邪魔にならないけど舞台センターに立ってる人が隠れてしまう。頭にはかぶらないよう祈って、一段減らす。レンズの頭を上げ気味にしようと調整、持っていた本はハードカバーで厚すぎる、文庫本は持っていないので、客入れ中にこのレポートを書く予定だった便箋をはさむと丁度いい。リアルタイム報告を諦めて、しっかり固定する。昭和さんに「客入れ中は桟敷のチケット袋、赤いやつ写しといて」といわれ、準備する。

2:40、10分押しで開場。お馴染の寺山さんの講演の声が場内に流れる。客入れ終わりでスライド消しに客席に入ったら二時間半は動けないので、今のうちに歩いておこう。ロビーには次々とエスカレーターを上がってくるお客様の姿。人手が足りないのか、舞台係の田中くんがアンケートを配っていた。さっき裏で着替えていたのはそのせいだったのか。販売カウンターも賑わっていた。開演5分前、客席に入る。何がなにやら、会場内の時計で3時を過ぎてもいっこうに始まらない。15分経過。時計は23分になったところで「今日開演3:30だっけ?」と不安になる程、アナウンスも何もないまま待たされている。やっと八尾さんが舞台に現れこういった。
「本日はご来場ありがとうございます。皆さまの貴重な時間を使ってしまって申し訳ありません、実は亀有にあります、リリオホールに行ってしまったお客様がいらしたそうで、開演が遅くなったことをお詫び申し上げます」。あとで聞いたところによればあの時計は5分以上進んでいたそうで、私を含めた会場内の全員が30分押しと思っていたあの時は3:15だったそうだ。

第一部「書を捨てよ町へ出よう」上映。
映画は2度目だが、おもしろいと思うところは一回目と全然違った。ちゃんと台本のある部分より、街頭でのロケが楽しそうだった。今でも原宿とか、外で歌ったり踊ったりしている人はいるけれど、壁とか道路に字を書いたり、通行人に話しかけたりして警察に追っかけられたり、それを遠くから撮影しているというゲリラなところがおもしろい。
スライドの真ん前に座っている私はスタッフだとバレバレなので、映画の最中に隣のお客様に「少し寒いんだけど、温度あげて貰えますか?」と話かけられ(でも客席の真ん中なので出ていくのは困難で)切ってあった携帯の電源を入れ、メールでイッキさん・八尾さんにその旨依頼した。

第二部「修司さんへの手紙」。 英明さんの詩は、一昨年の「平内高校文化祭」のビデオで一つだけ聞いたことがある。寺山さんの詩みたいだと思ったのを覚えている。さらにこの演目については、青森に一緒に行った昭和さんのスタッフから「初めて聞いたときは涙で舞台が見えなくなった」とか「聞き入って仕事を忘れた」という前評判を聞いていて、念のため、小さいタオルを用意しておいた。私の仕事が英明さんの詩が始まる前までで、ホントによかった。
英明さんは音楽と、詩を、同じように扱う。昭和さんの朗読と違うのは、昭和さんは言語を語る「語り部」という印象だけど、英明さんは音楽を演奏するようだったことだ。見た目で言えば、叫んだり、熱くなったりする部分があり、昭和さんに似ているように感じるかもしれないけど、基本的に昭和さんは間に入るトークの部分までは聞いている側は高い緊張感を強いられ続けているので、トークになって柔らかな明かりがついて柔らかな曲がかかって昭和さんが「どうもありがとうございました」と言うとホントに空気がそこでがらっと変わるのをいつも感じる。英明さんの場合は、むしろ、音楽のライブの感じだ。ひとつの詩ごとに一曲が終わる、そういう感じ。かといって別に気が抜けてしまうのではなく、なんとなく一区切りがあって、次の音を待つ、というような期待をこめて息をひそめる感覚。普段の英明さんとも、さっきの映画の中の「北原英明」「佐々木英明」とも違う英明さんが舞台には存在する。私からすれば、昭和さんも、自分がお客さんで見ている時は、語っている時とトークの時の姿のギャップにどっちが本当の昭和さんなのだろうと騙されてる気がしていたけれど、たぶん、どっちも本当なのだ。

英明さんの詩で私がいい!と思ったのは、本堂さんがカゲマイクで声を合わせる形式のもので、中でも英明さんが読んでいる言葉と全然違う言葉をリフレインして合わせるもの。(手元に台本がないので表記は正しくないと思いますが)
本堂さんが「赤い鳥が青い実を欲しがるころまでには」「青い鳥が青い実を欲しがるころまでには」と言い、
そのあと繰り返し「赤い鳥が赤い味を・・」「青い鳥が青い実を・・」と、声が消えていきながら英明さんの詩にかぶっていくのだ。オペラみたい。
次の「我が家だよ」で終わる詩は、作った本人が朗読する意味を思った。たぶん英明さんの朗読を聞く前に活字で見ていたら、もっと静かな朗読を思い浮かべただろう。詩の中に出てくる、背中に背負った子供の身体が熱い、それが詩の温度を作っていた。

表題作になっている「修司さんへの手紙」は、始まった途端に、皆が言っていたのはこれか!と分かった。さっきまで熱く叫んでいた英明さんがふっとついた明かりの中でマイクを下げて立っている。曲もかかっておらずだた、英明さんがそこにいる。ふうっ、と大きく息を吐いて、自然にマイクを口元まであげて語り始めた、いや、話しかけ始めた、というのが正確かもしれない。英明さんがひとり、寺山さんに語りかけるところから、問いかけて、応える、相聞形式になっていく。聞いているうちにどっちが英明さんなのかわからなくなる、だんだんそんなことはどうでもよくなる、全部英明さんで全部寺山さんのような。セットも何もない舞台で「お会いできますか」「お会いできますか」「お会いできますか」と繰り返し問いかけて終わる。
「僕なら静かだ」で始まる最後の詩は、この前の詩で連れていかれた、空の高いところにいるようだった。思い出したのは、返事してくれる人がいるのが無条件に当然と思っていた頃、そうでないことを知った時の空気の冷たさだった。かなしいとかそういう言葉すら浮かばない、わからないから何もできない。ただ呼吸することしかなくて、深く息を吸い込んでゆっくり吐いた、その時に似ていた。詩人が皆そうなのかは知らないけれど、その残酷な事実を事実として文字にする英明さんは、強くあろうとしている人だと思った。表現をする人は皆そうなのかもしれないけど、横田創の言葉を借りれば「絶望だけが希望であるような・・」、その姿勢にわけも分からず、涙が出てしまうのかも知れない。

第三部「李庚順」。

第二部から休憩をはさまずに始まったので、このあとの段取りで残念ながら私は途中退場。
裏へ回って八尾さんに「トークの客席用ハンドマイクはどうなってますか?」と訊くと「あっ、このあと準備してる時に偏陸さんと打ち合わせてくれますか」といわれオペ室向かう。ロビーで顔見知りのお客様に会いお話しているうちに詩が終わってしまい、ダッシュで4階へ向かう。偏陸さんに用件を伝えると「そんなの聞いてないよ!それに客席と話してる時間もあまりないからナシ!」と却下される。「それよりあなたちょっとの間ここにいられる?マイクこの1から6番だから、ここで聞いて様子見て調整して、俺もう下行くから」「わかりました」とよくわからないまま引き受ける。今日は偏陸さんは映写技師・音響・トーク出演と大忙しなのだ。念のためインカムをつけて待機、舞監に連絡。「イッキさんいますか?こもだですけど、客席マイクなくなりました、偏陸さんは降りました、私は偏陸さんの替わりにオペ室にいないといけない模様です」イッキ「わかりました」
八尾さんが舞台にマイクもって出て来るも、マイクが入らない。偏陸さんに言われたフェーダーは全部上げてるんだけど?
イッキ「まりちゃんマイク出てないよ」こもだ「どれだかわかんない、偏陸さんいたら聞いて」「いないんだよ」言ってる間に挨拶を地声で終えた八尾さんがオぺ室に上がってきて来て「偏陸さんと話して、客席マイクなしになりました、質問があったら俺が復唱することにするから」と走り去っていった直後インカムから「八尾さんいます?」とイッキさんの声。
こもだ「照明の斎藤さんとこじゃないですか?」斎藤「えっいないよ」こもだ「じゃあ下に行ったと思いますけど」そのあと斎藤さんが「イッキくんイッキくん」と呼ぶが応えはない。「たぶん今机とか用意してるんでインカムから離れてると思われます」と替わりに返事する。斎藤さんとは長い知り合いだけど今日は客席で挨拶したキリで会っていない。しばしインカムで世間話。インカムでイッキさんが「八尾さんどこにいるの?もうみんなスタンバって八尾さん待ちなんだけど」焦っている。「まりちゃんブザー鳴らせる?」「わかんないです」ばたばたしてると何処からかブザーが鳴り、同時に緞帳が上がる。(あとで聞いたところこの時裏は、マイクのコードが届かない、トーク用に用意したヴォルビック六本を飲んでしまった人がいて三本しかない、昭和さんの水をイッキさんが机に当たってこぼす、ブザーは「そろそろですよ」の合図だから鳴り終わってから上げろといわれたのに鳴り始めた途端操作してしまって止められなかった、などのパニックだったそうだ)

第四部「書を捨てよ町へ出よう」の寺山修司の世界を語る。
今見たばかりの30年前に作られた映画の話を、当時の製作・出演メンバーから解説や裏話が聞けたのは面白かった。
英明さんは最初の挨拶で「映画の上映のあとに僕が出てってしゃべるってのは、お客さんも驚くだろうしあくどすぎるんじゃないかと思って断ろうかと思ったんですが」と言って場内を沸かせていた。稲葉さんは字を書く仕事が多くて、映画の中の落書きも稲葉さんが書いたとか、台本を清書する係だったので寺山さんが1枚書きあげると隣の稲葉さんに渡して原稿用紙に清書させて溜まると印刷所に持っていったとか、原稿を書いてる最中に「稲葉、誕生日はいつだ」と聞かれて答えた生年月日が主人公の生年月日にそのまま使われたとか、英明さんが「人力、人力!」と叫びながら線路を走るとても手ぶれしてるシーンでは、カメラマンが後ろ向きにカメラを担いで走る後ろを英明さんが走ったので二人とも全力疾走だったとか、昭和さんが裏から持ってきた構成表によれば「撮影は(劇中歌にある通り)1970年8月ですね」とか、ラストの皆の顔がパンされる場面は、普通なら車つけて一列に並ばせて撮るのが常套手段だけど、このときは全員を360度に並ばせて高さを揃えて、ファインダーを覗かずにカメラを回した(そのほうが惑わされずに等間隔で移動できるそうだ)といい、それに対して八尾さんが「皆さんキッと睨みつけてますけど、『睨め!』というような演出はあったのですか?」と訊くと偏陸さんは「ないよー、俺はにこやかに映ってたでしょ」と笑った。英明さんに詩についての質問があり「詩を書けるようになったのは、寺山さんが亡くなってからです。寺山さんが生きているうちは、寺山さんみたいな詩を書こうとしていて、書けなかったんです。どうせ書くからには寺山さんに誉めてもらえるものを書きたかったし、その為には寺山さんみたいな詩を書かなきゃと思い込んでいたんですね、きっと寺山さんはそうではなかったでしょうけど。でも結果的に書き始めてみたら、確かに似ています。今詩を書いてる仲間には『英明の言葉の使い方は寺山修司と同じだ』とよく言われます」と応えていた。昭和さんは「あのサッカー部のキャプテン役でしたが、独りで語るすごいかっこいいシーンがあって、その為に、あの(映画の中で着ている)白いとっくりのセーターを買った」とおどけて話していた。
最後に萩原さんが「稲葉はテラヤマ新聞なんてものを作り続けているし、偏陸は「ローラ」を上映するときはいつも二十代の自分になってスクリーンに飛び込まなきゃいけないし、それに寺山さんの弟になっちゃって全人生賭けちゃったって感じだし、英明も映画の中で最後は自分の「佐々木英明」として語ってるし、昭和もこうやってイベントを打って、みんな寺山さんの影響下にいるってことだよね、未だに」と言った。
そのあとテラヤマ新聞主催の、恒例夏休みバスツアーの告知と、昭和から「一番遠くから来た方はどなたですか?」と山口県から来てくれた方に寺山さん直筆原稿のカラーコピーをプレゼントしたりしたあと、チラシには告知していない最後の企画へ。

第五部「アメリカよ」。
後からアンケートを見れば、あんなに時間オーバーしてしまったものの、最後の「アメリカよ」が嬉しかったとの声もあり、よかった。

最後のカーテンコールで英明さんと本堂さんを呼ぶと、客席の女性から英明さんに花束が渡り、昭和さんは「俺にはないんですか?」と笑って「ありがとうございました」といいながらはけて、イベントの全てが終了した。スライドを片付けているとかわいい女の子に呼びだされ誰かと思ったら、掲示板でお馴染のはな@もげこさんだった。2週間学校で会えなかった萩原さんの顔をやっと見られたと喜んでいた(後日教室で著作にサインをもらったらしい)。テラヤマ新聞の金子さんによればこのイベント特集号だった4月号が何十部も売れたとかで、幸いだった(欲しい方はこちらで)。会場にいらしてた前田律子さんが偏陸さんに会いたいとのことで4階へ探しに行くと、偏陸さんは映写室で映写機にかぶりつい、両手でフィルムを巻き戻していた。リールが合わないくて、機械が自動巻き取りをしてくれないそうで、「今手が放せない、これ、あと15分はかかるからそう伝えて」と働き続けていた。

10時までかかってバラしたあと、近くのお好み焼き屋「大文字」で>出演者を囲む会が催され、ご希望のお客様と出演者とスタッフと総勢30人位で飲んで食べた。会場では今日いろいろお世話になった大澤由喜さんを始め、万有引力の根本さん、元月蝕歌劇団の高野美由紀さん、天舞鑑主催の市川正さん、日刊ゲンダイの記者・山田勝仁さん、常連のお客様でいつも二人の娘さんと来て下さるお父さんの宮田さん(渋谷ジァン・ジァンの喫茶室でウェイターをしていた人だとか)、MXテレビのお二人、テラヤマ新聞スタッフの金子さん、他にもご挨拶できなかったけれど若い学生さんらしき男女が何人もいた。
私たち昭和精吾事務所組は片付けで最後までいたので入り口近くのはじっこの席に昭和さんと一緒に座り、熱くなった鉄板の上ですっかり干上がりかけている「スタミナ焼き」(赤いスープで辛めのうどん)やサラダを食べた。偏陸さんを始めとする何人かのスタッフは、これが今日初めての食事だった。相田さんは制作スタッフデビュー初日とは思えぬ、しっかりとした気遣いを見せて、まわりの人のビールを頼んだり、お皿をさげたり、頼もしさを感じさせた。MXさんはことごとく、乾杯やご挨拶のシーンを忙しく撮影していた。英明さんが遠くからわざわざ昭和さんに挨拶にいらした。「英明は相変わらずいいなあ!もう、先にやられてプレッシャーかかっちゃったよ、俺先にして英明にプレッシャーかければよかったよ」とご機嫌に話し合う昭和さんと、英明さんの間にはさまれて出るに出られず、間でおとなしくビールを飲みながら話をきいていた。本堂さんは門限があると途中で帰ってしまったが、舞台度胸あるねえ、と噂した。彼女は英明さんが構成演出した、99年の「平内高校文化祭」で詩を読んだメンバーで、今回の為には殆ど合わせる稽古ができなかったけれど、依頼通りちゃんと全文覚えてきていたそうだ。「まだ詩も未完成だからね」と英明さんが言うので「すごく緻密に構成されてるじゃないですか、あの文化祭はビデオで拝見しましたけど、寺山さんの言語をバラバラにして構成した作品がおもしろかったです」「あれもね、あなたたちが青森でやったやつみたいに上手にできたらいいけど、初めて舞台立つ人が多かったからね、でもうまくやることが目的じゃなくて、楽しいってわかってもらえればいいと思ってやったんだよね。昭和さん、こもださんが書いたホームページ読んだら、青森でやった短歌の掛け合いのやつ、全然気づかなくて『いいなあ』と思って見てたらあれ僕が構成したってちゃんと書いてあってびっくりしたよ。でもあれ、なんでこもださんが『男』読むことになったの?」「昭和さんが最初から『こもだが男ね』と言ったんです」昭和さんはそれには触れず「あれは野外でしょ、あんな炎天下で前の日と違う演目やりますって言っちゃったけど二時間やったら危ないなと思って、当日の朝になって『八尾、スーパーマンやれ』『こもだと諏訪、これやれ』って急遽やらせたんだよ(詳しくはレポート参照)。でもほら、いつも最初にやる短歌十首も、英明が前に構成してくれたままだよ、あのまま使ってるんだから」なのだそうだ。昭和さんは「こもだ、またレポートで英明をかっこよく書いてよ」と私にプレッシャーをかけていた。
そのあと宮田さんから、ご自分の出身地である岐阜の方で公演を打とうという企画が持ち込まれ、今話がある沖縄、大阪あたりとどれが先になるかはわからないが、今年もあちこち寺山修司の語り部として生きていくつもりらしい昭和精吾であった。



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