修司の扉
寺山さんとの思い出 その3


寺山さんが素足でサンダル履きなので多分劇団の近くで撮った写真であろう。
カルメン・マキ嬢であるがここではマキ嬢だけに限って語ることにする。
私が研究生として入団した時すでに先輩として在団していたが、伊藤牧?確かまだ本名を語っていたと思うが自分にとっても初舞台となった天井桟敷館の柿落とし公演「時代はサ−カスの象にのって」の当時のポスタ−を見てみると、すでにカルメン・マキとなっている。発売前の「時には母のない子のように」を楽屋で何度も聞いた。本番1週間ほどは一緒だったが、そのうち歌っていた反戦歌「鳩よ」が突然蘭妖子嬢に変わりそれっきり会う事はなかった。毎晩「アメリカよ」を叫んでいた私はそのへんの詳細な事は知らない。稽古の休憩中に何度か一緒に飯を食いに行った事と近くにあった焼肉店で一度だけマキさんのお母さんに腹一杯ご馳走になった思い出があり、そのとき「昭和さん、今度だけは歌じゃなくてセリフを言ってみたかったわ」ポツリの一言が今も耳にある。
その年の5月末、我々はヨーロッパ公演に向かった。7月初旬帰国、どのチャンネルを回しても裸足の歌い手がそこにいた。それにしても敬愛病院の隣の質屋に運んだあの白黒のテレビは何処にあるのだろうか・・・・・。 レコ−ドもしばらく持っていたが沖縄公演のおり、天井桟敷在団中は「網走五郎」の現・沖縄護国神社・神主、渡辺尚武氏にプレゼントした。 もう、15年は過ぎたろう。吉祥寺で万有引力公演があり飲み屋でバッタリ。シ−ザ−達と一緒に飲んだのが最後の姿で以後会ってはいない。

(写真は某氏お別れ会の時、歌人小川太郎氏が出席者全員に配布されたものを使用させて頂いた)

 

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