桟敷の扉
劇団の思い出 その24

No.1

下の画像はパンフレットの一部です。クリックすれば画像全体が見られます。

No.5
No.4
No.3
No.2
No.1

「精吾の部屋」の再開である。
だいぶ前になるが「ガリガリ博士の犯罪」の写真集で終わっていた前回の、その年が明けた1970年3月24日、我々は音羽の「講談社」6階講堂において、後楽園ホ−ルから本物のボクシングのリングを借りてきて、今でも信じられないような葬儀を執り行った。漫画「あしたのジョー」の中で壮烈な最期を遂げた「力石徹」の葬儀であった。

手持ちの年表を見れば構成が東由多加氏(元・キッドブラザ−ズ主宰)となっているが、多分、在団していた天井桟敷側との二部構成になっていたような気がする。今回は自分が所持している、その天井桟敷側の構成表を最初に掲示した。前代未聞の漫画の登場人物のその葬儀の中で自分は弔辞を読んだ。
「力石徹よ 君はあしたのジョ−のあしたであり、片目のトレ−ナ−丹下段平のあしたでり,全ての読者のあしたであった…」の書き出しで始まる寺山さんの書いた弔文であった。その時に使用した「力石徹」の顔写真や葬儀の写真なども何枚か持っているので掲載したかったが著作権に引っかかりそうなので、関係者と相談して後日にさせて頂く。

一度、質問に答えて掲示板に記載したが、
●『負け犬の栄光』寺山修司著 角川春樹事務所出版
●『奇の発想』内田勝著 三五館出版
●『団塊パンチ』飛鳥新社出版
●讀賣新聞 2006年度11月27日朝刊 都民版
等を参考にして見て頂くのも読者諸君の一考かもしれない。

なお余談になるが、1999年、「アニマックス」で特番「誰が力石を殺したか!」が放映された。その時その冒頭で昭和がその弔辞を朗読している。下手な語りなどどうでもいいが、この番組はかなり中身が濃い。亡くなられた東由多加氏のコメントや、絵の原作者だったちばてつや氏と当時の「少年マガジン」の編集長だった内田勝氏の対談など一見の価値がある。この、ホ−ムペ−ジの大半はリピーターの方々であると昭和は思っている。
そこで20万人目の方に、そのマザーテープからのダビング(VHSかDVD)と構成表のコピ−、そしてジァン・ジァンの最終公演のライブビデオをセットにして、ささやかではあるがプレゼントにさせてもらう。

舞台が終了したあの晩、「梶原さん、皆で一緒に飲みましょうよ」「いいよ」「俺、片付けがありますから養老の滝の方へ先に行ってて下さい」「何?昭和君今なんて言った?」「養老の滝ですよ」「えっ!これから岐阜県まで行って飲むのかい?」いやはや、なんとも楽しいやり取りがあった渋谷ジァン・ジァンの楽屋であった。たまらなく懐かしい。この続きは後になるが再度報告しよう。

「主人がなくなって今年は20年目ですよ」梶原一騎氏の奥さんから頂いた今年の賀状には、そう書き添えがしたためてあった。あの年「あれ?今年は何で梶原さんから来ないんだ?」1月21日、泉下の客になっていた。
その昭和も、もう65歳を迎えた。


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