精吾の扉
昭和精吾について その1

昭和43年12月18日、今から36年前一枚の葉書が送られてきた。7円である。

豊島区長崎2-26-9長田とよ方 鎌田賢様

現在この住所が存在してるか否かは判らない。長崎と言っても下車駅は西武池袋線椎名町であった。改札口は1ヶ所で突き当たりが神社、左に帝銀事件の銀行があったというが、知ったのは数年後のことだった。そして右に折れたほど近い場所にマンガ村があった。
話が前後するがヨ−ロッパ公演に客演として参加したハッポ−こと山谷初男氏が稽古終了後よく新宿の「テアトロ」へ飲みに連れて行ってくれた。演劇仲間が大勢いたがなぜだろう? 寺山さんの人気はあまりなかった。(ひがみだろうか?)ハッポ−は酔うと必ず岡林信康の歌を唄った。「チューリップのアップリケ・・・、」「昭和帰ろうか、俺、今日も椎名町へ行くから乗っけてやるよ」当時、白の乗用車に乗っていた。完璧な酒気帯び運転である。そして、マンガ村へと消えていった。こんな事がヨーロッパへ出発するまで数回続いた。検問があったのかな?あの時代。一度も捕まらず一度も事故らなかった。快適なドライブであった。天晴れハッポ−ありがとう。
二階の四畳半に間借りをしていた長田家にイツ子ちゃんという娘がいた。その頃、森光子さんのお付をやっていた。東映時代一度だけ三人で撮影所で会った。4年前、「寺山修司の世界」を芸術祭参加公演として上演した時見に来てくれた。実に30数年ぶりの再会となった。斜め前の部屋にはジョ−ジ川口氏のマネジャ-兼お付の内藤さんが住んでいたがこちらの方は音信が途絶えた。
西日が強く差し込む部屋になぜか三島由紀夫といしだあゆみのサインが飾られていた。

 

精吾の部屋index行き

top page行き