精吾の扉
昭和精吾について その4


篠田正浩監督と岩下志麻さんは、たまに天井桟敷館の喫茶室へ遊びに来た。遊びに来たと言うよりは寺山さんとの仕事上の話だったのかも知れないが近くで見るだけで内容までは当然ながら判らなかった。その内、稽古中に先輩、下馬二五七氏、新宿新次氏、彦凪ワタル氏、森崎偏陸氏等と呼ばれた。「今度、篠田が心中天網島を撮るので黒子役で協力してくれ」その時の台本である。脚色富岡多恵子、武満徹、篠田正浩、紙屋治兵衛〜中村吉右衛門、おさん、小春〜岩下志麻、他に加藤嘉氏、小松方正氏そして黒子頭は浜村純氏だった。
1月24日顔合わせ、27日クランク・イン2月9日まで(多分、これは拘束期間であろう)台本のうしろにはそう書かれてある。入団して間もない時だった。目黒のスタジオは寒かったが待ちの間スト−ブを囲み、吉右衛門氏のゲテモノ食いの話や外国から帰って来たばかりの小松方正氏の「言葉?ああ、いらん、いらん、身振り手振りでみんな通 じる!」それなりに楽しい仕事だった。この時も黒子・鎌田賢になっている。名付け親は萩原朔美氏、最初は昭和賢、字体が冴えないのでクレ−ムをつけ精吾してもらった。これには訳があるが今度にする。しかし、いつから昭和精吾になったか全く本人自身も判っていない。この台本もオ−クションにかけようと思ったが中を見て愕然。チョイ役と言うよりは仕出し同然なのに台本に向かってウンチクいっぱい喋りまくっていることが、そのまま書かれているためやめることにした。
秋口になるだろうか? 寺山さんが逝って数年後に篠田氏に「われに五月を」のゲストでジァン・ジァンまでお越し頂いた事があったが自分にとってはあまりいい思い出にはならなかった。ジァン・ジァン特集でその時のチラシとともに理由を掲載する。ゆえに「瀬戸内野球〜」以後、篠田氏の映画は一度も見たことが無い。

 

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