TEXT:「『寺山修司の世界』盛岡公演に寄せて岩手日報」(1997.10.11)

「思い出多き北上の舞台」 昭和精吾



岩手には昭和46年の今頃の季節、青森県出身の歌人で、天井桟敷主宰の寺山修司と一緒に足を運んだ。当時私は劇団「青俳」(故/木村功、岡田英次、蜷川幸雄らが在団)を経て東映に移り、演劇実験室「天井桟敷」にいた。寺山の第一回監督作品『書を捨てよ町へ出よう』(サンレモ映画祭グランプリ受賞)の上映、寺山の講演、われわれ劇団員3人の詩の朗読をワンパックにした東北巡演だった。

最初の盛岡公演は大盛況だった。問題は、その後の北上市にあった。
当時あまり面白くなかった寺山の講演から幕が上がり、一通り話し終えて寺山は言った。
「何か今までの話の中で質問がありますか」。場内はシーンと静まり返り、沈黙が続いた。
「ここの観客は街が静かなせいか随分、おとなしいですね」。寺山は皮肉たっぷりに言った。
「人間がおとなしいのと静かなのではどうちがいますか?」。突然、甲高い女性の声で質問があった。
「おとなしくしているから静かなのか、静かにしているからおとなしいのか、どっちにしても同じような事が言えますが、人間一番おとなしい時は死んだ時です。次が眠っている時です。死んでも眠ってもいない人間がおとなしいのは主義主張を持たない、僕から言わせればほとんど無知に近い人間です。そういう意味で言えば目の前にいるあなたがたは、ほとんど無知に近い人間です」。場内が騒然となった。

そのしっぺ返しが詩の朗読の時にくる。最初は佐々木英明(映画『書を捨てよ・・』の主演男優)のぼそぼそ語りかけるような青森県の方言詩から始まったが、途中でマイクトラブルが起き、声が届かなくなってしまったのである。
「聞こえない!」「やめろ!」「帰れ!」。先程の静けさとは打って変わって猛烈なヤジが飛んできた。「聞こえなかったら前へ来いよ!」佐々木も負けてはいなかった。
「昭和、発煙筒を投げろ!」
舞台のソデで次の出番を待っていた私に、寺山が興奮しながら近寄ってきて叫んだ。当時、本番中はいつも発煙筒をポケットに忍ばせて観客の挑発に備えていた。それほど挑戦的な舞台を「天井桟敷」は作っていたのである。
「わかりました」真っ白な煙の帯が何本も客席めがけて飛んでいった。「昭和! もっと投げろ! 北上をつぶせ!」

自分も興奮していたが、これから一体どうなるのだろう? 心の隅に確かな冷静さはあった。あの時一番発煙筒を客席に投げたのが劇団の後輩で、今は盛岡の劇団「赤い風」にいるおきあんごだったように思う。今年夏、三沢市に設立された寺山修司記念館のオープニングでおきと再会してこの話をしたら、「昭和さん、おれ一本も投げてないですよ。同じ県民じゃないですか」「うそつくな、おきが一番多く投げたじゃないか」

26年前の、なんとも懐かしい話だ。二人とも血気盛んなころで、寺山さんも元気だった。その時の寺山が構成した生原稿が今、手元にある。この話の続きは16日の盛岡公演本番で、あの時の生原稿をお見せしながら、ゆっくり語ろうかと思っている。

今日も稽古場のある東京・有明の空は赤とんぼの乱舞だ。あの遠い日、北上市の劇場で我々に一生懸命ヤジを飛ばしてくれた方々は今ごろどこで何をしているだろうか。夕焼け雲の下、ふとよぎる郷愁に似たこの思いは、やはり人恋しい秋のせいかもしれない。

お元気ですか。今もお変わりございませんか。
あの日あの時と時代も大きく変わりましたね。
私、昭和も今は発煙筒など忍ばせて舞台に立ってはおりません。


ふるさとの 訛りなくせし友といて モカ珈琲はかくまでにがし   寺山修司



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