TEXT:大江健三郎『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮文庫)

「自作の引用にはじまり、引用がすべてを覆うと思われる日に向けて」 大江健三郎



若くして死んだ ─と同世代としては思いたいのですが、もっと新しい世代には、充分この世界の場所ふさぎをした上での、とおもわれているでしょうか ─めざましい才能、寺山修司から、もう二十年も前のこと、時どき手紙をもらっていたことがあります。それもつまりは同世代のよしみ、ということであったでしょう。寺山の手紙には、様ざまな引用が花飾りのようにちりばめてありました。面白かったのは、僕自身の小説の一節までが、かれの引用によって詩の一部に変身することでした。
ある日、絵葉書のだったと思いますが、次のように行分けして詩のように書いたものが、ただ寺山修司の署名をつけたのみで届きました。《樹はなぜ垂直にのびるのだろうか?/地面を根のようにはいずりまわってのびることはできないのか?/ねえ、パパ、樹はなぜまっすぐ空へむかってのびるの、/地面をはいずりまわってのびることはできないの?/それじゃあ、ぼうや、収集不可能だよ!》
これは自分がいつか見た夢の会話を、そのまま詩に書いたようじゃないか、と胸をつかれたのでしたが、そのうち気がついたのは、それが『われらの時代』という僕の若い頃の小説の一節であることでした。ほかならぬ僕も、自分の論文・エッセイに引用をしばしば行いますが、そうしながら僕は、他者の文章を自分の文章に、散文の連続性において馴化させることを望んでいるように思います。寺山は、あきらかにかれの才能のしからしめることですが、詩の切断性において、屹立させることをめざしていたのでした。僕の仕方は、ミトミニックな引用、かれの仕方は、メタフォリックな引用ということもできるはずです。僕らの同世代のうちからの、向こうの領域への先行者として、寺山修司を懐かしみます。かれは僕の散文に詩を発見して、それを行分けしてみせることで、ある種の自己発見をうながしてくれたのでしょう。僕はかれの誘いかけに乗ってゆくかわりに、早ばやと詩を断念したままでしたし ─「書を捨てよ、町へ出よう」というのがかれの行動の規準でしたのに ─いつまでも自分の根拠地を書物の脇におく、という仕方で生きてきたのであって、もう永くこの演劇的な行為者・思想家と疎遠でしたが・・・



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