TEXT:谷川俊太郎『ことばを中心に』(草思社)

「寺山修司  ─五月の死」谷川俊太郎

五月四日午前、主治医から夕方までもつかどうか分からないと告げられて、九條映子さんと私は病院前の喫茶店で二十分ほどぼんやりとしていた。そのとき不意に寺山の初めての本の題名が心に浮かんできた。<彼の最初の歌集の題名覚えてる?>と問うと、九條さんは<『空には本』>と答えた。<いや、その前にもうひとつあったじゃない。歌集ではなかったかもしれないけれど>

一九五七年、中井英夫の好意で作品者から詩、短歌、俳句、小品、エッセイなどをまとめて寺山の最初の単行本が出版された。そのときも彼はネフローゼで絶対安静の身だった。題名は『われに五月を』。
四月二十二日の入院以来、ありとあらゆる医療器械にとりまかれて昏睡状態をつづける寺山を見守ってきたのだから、とっくに覚悟はできていたはずだが、『われに五月を』という題名を思い出した瞬間、私の心に哀しみと解放感をともなった不思議な感情が生まれた。
肝硬変をかかえていたとはいえ、無理をしなければまだまだ生きられたし、その残された時間に寺山がどのように変貌するか、じっくりつきあいたいと思っていたから、今回の急変に私はある口惜しさを押さえきれなかったのだが、そのとき初めて私は寺山の死を受け容れる気持ちになったのかもしれない。

何十冊にも及ぶ著作のその出発点から、彼は死のときを自分のうちに予感し、呼びこんでいたのか。だが、当時二十歳という若さで死に瀕していた寺山が、死を覚悟していたとは思わない。おそらく健康な人間には思いもつかない烈しさで、彼は生きたかっただろうと思う。「五月の詩」と題された序詞には、<二十歳 僕は五月に誕生した>という行が、二度くり返されている。
集中に収められた作品は、その後の彼の仕事にくらべればほとんどとるに足らぬものかもしれないが、そこに死の影はおろか、病の影すらおちていないのは、おどろくべきことだ。当時の彼にとってもっともさし迫った現実であった病と死に、寺山は全く背を向けている。
それらの作は(発病以前のものも含めて)私的な現実を徹底して否認するところで書かれているように思える<�何の作意ももたない人たちをはげしく侮蔑した。ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位 に告白癖を戒めさせた。>と、寺山は一九八五年に出た『空には本』のノオトに書いているが、<はげしく侮蔑>、<はげしいさげすみ>と重ねられる表現には、方法論の表明として読むだけでは片づかない深い感情がひそんでいる。

詩歌においても、劇や映像作品においても、ときには単純な履歴においてすら彼は自分というものをかうしてきた。それは一貫した方法論でもあったのだが、そうした態度をとったその根本に、いわば<私の死>とも呼ぶべき彼の年少のころの体験があったのではないだろうか。

九歳のときに父を失い、母が働きに出たため一人暮らしをしたこと、高校文芸部の仲間ふたりが自殺していること、そして十八歳から二十二歳までネフローゼで入院生活をし、何度も死線をさまよったこと、年譜を見るだけでも彼が日常の私的な現実に背を向けたくなる材料には事欠かない。

だがそこから寺山が虚構へと・・したり逃避したりしたとは私は考えたくない。過酷な指摘現実をひっくり返すようなより広い現実、寺山自身の言葉をかりれば、<私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力>、<たったいま見たいもの、世界。世界全部。>(『血と麦』ノオト)それを彼はもとめた。
それは死を否認する生の力と言っていいだろう、彼にとってはそれは同時に言語の力でもあったのだ。現実の死に先立って原義によって自分自身を殺すことで、彼は誕生し、生きた。そこからしか彼は生きる力を得ることができなかった。『われに五月を』と記したとき、その<五月>は彼の死のときであったけれど、それは同時に彼の生そのものでもあった。


五月四日午後零時五分、心電図の針が上下動をやめ、グラフに画かれていた弱い波動が、私の目の前で一本の平坦な直線に変った。人工呼吸器が装着されていたので、まだ生きているようだったけれど、そのとき初めて寺山は生と死とを連続させたのだ。死へと向かって成熟してゆくことを終始拒否しつづけてきた彼にとって、その瞬間は<私>の消滅の瞬間ではなくて、<私>との和解の瞬間、むしろ誕生の瞬間であるかのように思われた。



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