TEXT:「時代はサーカスの象にのって'84」台本より抜粋




『母捨記』


かあさん 僕は想い出している
かあさんの熱く大きな腿の上で
頭を洗ってもらった時
泡だった石鹸が目にしみて
かあさんを初めて呪ったことや
かあさんの真黒な陰毛が湯気にしっとりしていたことを かあさん 僕は想い出している
国立病院の木造病棟の隅っこで
ざあっと桜が散った時
ネフロオゼのかあさんの温かい小便を
長い廊下の果てにある
昏い便所へ置きにいったことを
一緒に並んだ他人の小便(もの)は
諦めきって冷えていたが
かあさんの小便は淋しい色をして
とてもうらめしそうだった
その透明すぎる溲瓶がみるみる灼くなるのを
僕は黙って見つめていた
その時便所の小さな格子窓に
ざあっと桜がまた散った

かあさん 僕は涙ぐんでしまう
かあさんはシャルル・ペローの童話のように優しく
僕の起源を教えてくれたまま
キャベツを剥きアイロンをかけつづけてきた
ああ、罪深き太っちょのかあさん
僕と朝鮮娘李薫花のおとなっぽい愛情も
遠い静かな場所で射精する音も
気だるい愉しい罷業を覚えたことも
ああ かあさんなんにも知らないかあさん
なんにも触れないかあさん
なんにも予期できないかあさん
かあさんのとびきり灼い血が
僕の指を目を亀頭を心臓を疾走してゆく時
僕はたちくらやみの中で
何もかも見抜いてしまう
ああ いたいけな太っちょのかあさん
結核菌だらけの淋しいかあさん
どんな単語にだってたじろがないかあさん
物欲しそうな白い軟らかい腕のかあさん

かあさん 僕は断ち切る
ねっとりどろりとした二重瞼の中の打算を
僕にいずれ取りのぞいてもらおうという下腹の中の脂ぎった<忍耐>を
かあさん 僕は捨てる

かあさんの性急な願望の巨大な臀を
かあさんの欲深な身のほど知らずの乳房を
かあさんの本音を曳きすぎる言葉を
かあさん 僕は消滅させる
かあさんの昼寝姿の思想と陰謀を
かあさんの膨れあがった憎悪の目と暴力を
かあさんの思いあまった声と幸福の死水を

かあさん 僕は帰れない
かあさん以外の陸を
僕は前々から予測していた
さっきも名もしらない海で
そっとひとり乗り込んだ船は
刻一刻かあさんを見限って
太い誇りをボオッ!と鳴らす
かあさん 僕は帰らない
かあさん 僕は帰らない

僕は青白い孤独な密航者なのだし
僕の背中遙かに翻る洗濯物の上で
涙ぐむかあさんのためには
一本の曳航綱さえ用意されていないのだから



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