昭和10年(1935)
12月10日、青森県大三沢市に生まれる。
父・八郎は特効警察の刑事であった。

昭和11年(1936)
1月10日生まれとして役場に届けられる。

昭和20年(1945)9歳
父アルコール中毒のため、セルペス島にて死亡。終戦。
母がベースキャンプに出稼ぎに出たため、やむなく自炊による一人暮らし。
詩を書く。

昭和22年(1947)11歳
ボクシングジムに通いだす。草野球に熱中し、少年ジャイアンツの会二入会。
シナトラの『オンリーはロンリー』の歌をおぼえる。

昭和24年(1949)13歳
青森県歌舞伎座に引き取られ、扶養される。楽屋裏の生活が始まる。楽屋はスクリーン裏にあり、ときどきドサまわりの一座と起居を共にすることもあった。
母、九州の炭坑町へ移る。
美空ひばりの『角兵衛獅子』愛唱する。

昭和26年(1951)15歳
4月、青森高校に入学。学校新聞、及び文学部に参加。雑誌「青蛾」発行。
ハンフリー・ボガードにファンレターを出す。

昭和27年(1952)16歳
青森県高校文学部会議を京武久美、近藤昭一、塩谷律子らと組織。
詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。伝統の検証を旗印に全国の高校生に呼びかけて、十代の俳句雑誌「牧羊神」を創刊、編集。季刊で12号まで続けた。
この雑誌を通じて中村草田男、西東三鬼、山口誓子らと出会う。

昭和28年(1953)17歳
全国学生俳句会議を組織。俳句研究社の後援を得て俳句大会を主催。柳田国男、戦時中の新興俳句運動に興味を抱く。俳句雑誌「牧羊神」への参加者100人を超す。
大映の母子物映画を好む。
高校皆勤なるも、欠課275時間。このころより実作の他に論文も書き始める。

昭和29年(1954)18歳
4月、歌舞伎座の好意と母の仕送りで早稲田大学に入学したが、大学へはほとんど行かず、シュペングラーの「西欧の没落」に心酔。
夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる。
中城ふみ子の短歌に刺激されて『チェホフ祭』50首を作り、第二回短歌研究新人賞を受賞。
冬、ネフローゼを発病する。

昭和30年(1955)19歳
西大久保中央病院に生活保護法にて入院。詩劇グループ「ガラスの髭」を組織し、早稲田大学緑の詩祭の旗揚げ公演の戯曲「失われた領分」を書いた。これが戯曲第一作となる(『櫂詩劇作品集』に収録)。
出演者には山口洋子、河野典生らがいた。
同時上演が文学座アトリエの谷川俊太郎『白鳥の湖』であった。
病状悪化し、面会謝絶となる。

昭和31年(1956)20歳
絶対安静続く。スペイン市民戦争文献、ロートレアモン詩書、南北、秋成、カフカなどを読み過ごす。同病室の韓国人に賭博、競馬を習う。マルクス「経済学・哲学ノート」を読む。

昭和32年(1957)21歳
病状の小康をみて「砒素とブルース」「祖国喪失」「記憶する生」「蚪蜴の時代」など作歌。ネルソン・オルグレンの「朝はもう来ない」に感動。
中井英夫の好意で第一作品集『われに五月を』(作品社)刊行。

昭和33年(1958)22歳
病院と歌舞伎町界隈を行ったり来たりの生活。
第一歌集『空には本』(的場書房)刊行。賭博とボクシングに熱中する。
退院するが、定まった住所なし。

昭和34年(1959)23歳
谷川俊太郎のすすめで放送のための劇を書き始める。
『中村一郎』(RKB毎日放送)にて民放祭大賞を受賞。
歌舞伎、能の評論を書いていた堂本正樹らと集団「鳥」を組織。
このころよりライト兄弟の伝記、飛行の原理に興味を持つ。

昭和35年(1960)24歳
放送劇『大人狩り』(RKB毎日放送)が革命と暴力を煽動するものとして福岡県議会で取り上げられ、公安の取り調べをうける。
浅利慶太の演出する劇団四季に三幕劇『血は立ったまま眠っている』を書く。
ジャズ映画実験室「ジュース」を山名雅之、金森馨らと組織し、16ミリ実験映画『猫学Catllogy』を演出。
「きーよ」「ヨット」などのジャズ喫茶に入りびたり、コルトレーン、マルなどを好む。八木正生、猪股猛らとジャズと詩朗読の結合を草月アートセンターを中心に試演。舞踏手・土方巽と出会う。
言語と肉体の結合を試み、『贋ランボー伝』『直立猿人』など発表。
篠田正浩の長編映画第一作『乾いた潮』のシナリオを書く。
「文学界」に小説『人間実験室』を書く。初めてのテレビドラマシナリオ『Q』を書き、ねずみ1000匹を出演させる。
松竹映画女優・九条映子と結婚。安保闘争の年であった。
この年「寺山修司論」を書いた國學院大学生・岸上大作が12月に首つり自殺する。

昭和36年(1961)25歳
ファイティング原田と知り合う。ボクシング評論を書き始める。
文学座アトリエにて『白夜』上演(荒川哲生演出)、土方巽・黛敏郎らとの六人のアヴァンギャルドの会にて『猿飼育法』上演。
塚本邦雄の短歌に強く刺激され、『塚本邦雄論』を書き始める。
「現代詩」に長編叙事詩『李庚順』連載。第二歌集『血と麦』(白玉出版)刊行。

昭和37年(1962)26歳
人形のための実験劇『狂人教育』(ひとみ座)公演。
帰郷して恐山にのぼり、巫女の口寄せに興味をもつ。
放送叙事詩『恐山』を書く。
関西学院大学生だった山野浩一と出会い、競馬場通い多くなる。
佐野美津男とボクシング雑誌を企画するも果たせず。
テレビドラマ『一匹』(NHK、和田勉演出)書く唐十郎と出会う。

昭和38年(1963)27歳
大学にて『家出のすすめ』を講演してまわり、『現代の青春論』(三一出版)にまとめる。
谷川俊太郎、佐々木幸綱との共同制作詩『祭』試作する。
LFで『ダイナマイク』というドキュメンタリー番組を担当し、インタビュー・たずね人・詩朗読・犯罪レポートなどのコラージュで1年間続ける。担当は中村朗。
犬を飼う。映画『私生活』の中のブリジット・バルドーの役名をとって「ジル」と名づける。

昭和39年(1964)28歳
第三歌集『田園に死す』(白玉出版)刊行。
塚本邦雄・岡井隆らと青年歌人を組織する。
戯曲集『血は立ったまま眠っている』(思想社)、評論集『遊撃とその誇り』(三一出版)刊行。
放送詩劇『山姥』(NHK制作)でイタリア賞グランプリを受賞。
放送詩劇『大礼服』(CBC制作)で芸術祭奨励賞を受賞。
東邦ジムのアトム畑井を知る。
彼は「自分を捨てた母が、テレビに映って殴られているわが子を見れば、かわいそうだと思って名乗り出てくれると思ってボクサーになった」と言っていた。

昭和40年(1965)29歳
放送のための叙事詩『犬神の女』で第一回久保田万太郎賞を受賞。
中平卓馬を出会い、彼のすすめで「現代の眼」に長編小説『あゝ荒野』の連載を始める。
村上一郎のすすめで『戦後詩』を書き下ろす。
「芸術生活」に空想旅行記『魔の年』を連載する。
シンザン、三冠馬となる。古川益雄と出会う。『戦争は知らない』を作詞する。
早稲田大学劇団「仲間」が『血は立ったまま眠っている』を上演。演出をした東由多可と出会う。
テレビインタビュー番組『あなたは・・・』(担当・萩本晴彦)で芸術祭奨励賞を受賞。

昭和41年(1966)20歳
放送のための叙事詩『コメットイケヤ』(NHK制作・湯浅譲二音楽)でイタリア賞グランプリを受賞。

昭和42年(1967)31歳
映画『母たち』(ヴェネチア映画祭短編部門グランプリ)のコメントを書くため、監督の松本俊夫とフランス・ガーナ・アメリカなどをまわる。
横尾忠則、東由多可とともに演劇実験室「天井桟敷」旗揚げ
その第1回公演として『青森県のせむし男』(演出/東由多加・美術/横尾忠則)を上演、再演、再再演。
第2回公演『大山デブ子の犯罪』(演出/東由多加・美術/横尾忠則・音楽/和田誠)上演。
第3回公演『毛皮のマリー』では、作/演出/美術/音楽/照明/音楽の全てを担当。丸山明宏(現・美輪明宏)の主演にて再演、再再演。
評論集『書を捨てよ町へ出よう』(芳賀書店)刊行。
第四回公演『花札伝奇』
天井桟敷上演台本集『怪優奇優侏儒巨人美少女さあさあお立ち会い』(徳間書店)刊行。
評論集『時代の射手』(芳賀出版)刊行。
放送叙事詩『まんだら』(NHK)で芸術祭賞を受賞。

昭和43年(1968)32歳
「現代詩手帳」に『暴力としての言語』を、「思想の科学」に『幸福論』を連載し始める。
森山大道と『にっぽん劇場写真館』(室町書房)刊行。
第五回公演『新宿版千一夜物語』(美術/宇野亜喜良)。
第六回公演『伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの犯罪』(演出/萩原朔美)、『青ひげ』(演出/前田律子・美術/井上洋介)。
アメリカ国務省の招待で渡米し、アメリカ前衛劇事情視察。
ニューヨークにてラ・ママ、サンフランシスコで数人のフィルムメーカー、シカゴで黒人雑誌「エボニー」編集部、ケンタッキー・ダービー。
ネルソン・オルグレンを訪れたが留守。
評論集『思想への望郷(上/下)』(大光社)刊行。
羽仁進の映画『初恋・地獄篇』のシナリオを書く。
第7回公演『書を捨てよ町へ出よう』、再演、再々演。
放送詩劇『狼少年』(RAB)にて芸術祭奨励賞。
第八回公演『星の王子さま』(美術/宇野亜喜良)。
天井桟敷文芸演出部共同編集にて『ドキュメンタリー家出』(ノーベル書房)刊行。
『自叙伝らしくなく、誰か故郷を思わざる』(芳賀出版)刊行。

昭和44年(1969)33歳 
天井桟敷に昭和精吾参加。
一月、東大闘争の安田講堂を訪れる。そのルポルタージュ『ぼくが戦争へ行くとき』(読売新聞社)刊行。
「SD」誌にて高松次郎、原広司、宇佐美圭司とシンポジウム。
渋谷に天井桟敷館および地下小劇場落成。デザインは粟津潔。
第九回公演『時代はサーカスの象にのって』(演出/萩原朔美 美術/及川正通)。
「時には母のない子のように」を作詞。
『寺山修司の戯曲』(思潮社・全5巻)の刊行はじまる。
ドイツ演劇アカデミーの招待にて国際演劇祭EXPERIMENTA3のため劇団員15名(昭和精吾・九條映子含む)とともにドイツへ。『毛皮のマリー』『犬神』を上演。
演劇理論誌「地下演劇」を創刊・編集する。
ネルソン・オルグレン来日、競馬、ボクシングなどに案内する。
評論集『アメリカ地獄めぐり』(芳賀出版)刊行。
イスラエル国務省の招待にてイスラエル演劇事情を視察する。
放送詩劇『黙示録』書く。
西ドイツ、ニッセン市立劇場の招待にて『毛皮のマリー』『時代はサーカスの象にのって』を演出するため、宇野亜喜良とともにドイツへ。
唐十郎の主宰する状況劇場との乱闘事件にて留置された。

昭和45年(1970)34歳
第10回公演『ガリガリ博士』(美術/高松次郎)。
・・・・参考資料『家出のすすめ』(角川文庫)年譜・・・・











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